ウォールデン1:湖と朝と実在


支笏湖



森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫) / 森の生活〈下〉ウォールデン (岩波文庫)


支笏湖畔で、150年前にウォールデン湖畔の小屋で綴られたソローの『ウォールデン、森の生活』を30年ぶりに読み直し始める。30年前に理解したつもりになっていた老成したソローとは全く別人のソローがそこにいた。文明社会の虚妄を容赦なく暴き、<実在>への帰還を訴える若々しい激しさに打たれる。彼が<実在>あるいは<永遠>と呼ぶ大地や自然との人間の贅肉を削ぎ落としたようなぎりぎりの関係に根ざした言葉が、時代や社会の隔たりを貫いて私に届く。ジョナス・メカスの『ウォールデン』の映像が浮ぶ。



支笏湖畔で、アルゼンチンから流れてきたアルパ(パラグアイハープ)弾きの娘マリア(Maria Fernanda Peralta)と出会う。


 付近に水があると、それが大地に浮力を与え、浮き上がらせるので、こちらまで浮き浮きしてしまう。どんな小さな井戸でも、なかをのぞきこむ者に、大地は大陸ではなくて島であることを教えてくれる。(上巻155頁)


今朝、散歩の途中で出会った櫻岡さんと世間話をしたとき、エゾノコリンゴもハリエンジュ(ニセアカシア)もオニグルミもみんな無惨に剪定されたために野鳥が飛来しなくなった、たんぽぽ公園を話題にしたら、櫻岡さんは、昔、近くには大きな沼があって、鴨も群れをなして飛来していたと懐かしそうに言って微笑み、無惨な時の流れを憐れむような表情になった。驚いた、と同時に散歩でめぐる土地の風景に沼の光景が重なって浮き浮きした。嬉しかった。私にとっては今は無きその沼は<実在>だ。


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 朝は一日のうちでもとりわけ記憶すべき時間帯であり、目覚めの時である。

(中略)

 記憶すべきあらゆる出来事は、朝の時間、朝の大気のなかで生起すると言ってよい。『ヴェーダ』にも、「すべての叡智は朝とともに目覚める」とある。詩や芸術、もっとも美しく記念すべき人間の行動は、この時間にはじまる。あらゆる詩人や英雄は、かのメムノンとおなじように曙の女神(アウロラ)の子供であり、日の出とともに音楽を奏でるのである。弾力的な力強い思想を太陽とともに歩ませている人間にとっては、朝の時間が一日じゅうつづく。時計が何時を告げようと、ひとびとの態度や労働がどうであろうと問題ではない。朝とは私が目覚めている時間のことであり、夜明けは私の内部にあるのだ。道徳の向上とは、眠りをふり払う努力にほかならない。いまのいままで眠りこけていたのでないならば、ひとはなぜこれほど貧しい一日の勘定書しかさし出せないのか? もともとそんなに計算が下手だったわけでもあるまいに。眠気に負けていなかったならば、彼らもひとかどの仕事をやりとげていたことだろう。(中略)目覚めていることこそ生きていることにほかならないのに。(上巻160頁〜161頁)

われわれの目をくらます光は、われわれにとっては暗闇である。われわれが目覚める日だけが夜明けを迎えるのだ。新たな夜明けが訪れようとしている。太陽は明けの明星にすぎない。(下巻294頁)


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実在

 何か特定の絵を描いたり彫像を刻んだりして、二、三の美しいものを生み出せるということは、確かにすばらしいことである。しかし、われわれが透かし見ている大気という媒体そのものを彫ったり描いたりするのは、さらに立派なことだ。その日の生活を質的に高めることこそ、最高の芸術に他ならない。(上巻162頁)


「われわれが透かし見ている大気という媒体そのもの」とは、生きること自体を指す。

 実在が架空のものとされる一方で、虚偽と妄想が確固たる真理としてもてはやされている。もし人間が実在の世界だけをしっかりと観察し、迷妄におちいらないようにすれば、人生は------われわれの知っているものにたとえると------おとぎ話やアラビアンナイトのようになるだろう。必然的なもの、存在する権利のあるものだけを尊重するなら、詩と音楽が通りに鳴りひびくだろう。いそがず賢明に生きてゆけば、偉大な、価値あるものだけが永遠の絶対的存在であり、卑小な不安や快楽は、実在の影にすぎないことをわれわれは知るだろう。実在するものはつねに心楽しく、崇高である。だが、ひとびとは目を閉じて眠りこけ、甘んじて外見に惑わされているために、あらゆるところで型にはまった因襲的な日常生活をうち建て、固定させている。そうした生活は、やはり純然たる幻想を基盤として築かれているのだ。遊ぶことが生きることにほかならない子供たちは、人生の真の法則や、それとの関わり方を大人よりもよく知っている。ところが大人のほうは、生きるに値する人生を送ることができないくせに、経験------つまり失敗------によって子供たちより賢くなったと思いこんでいるのである。

(中略)

 思うに、われわれニューイングランドの住民たちが、現にこれほどくだらない生活を送っているのは、ものごとの表面をつらぬく洞察力を欠いているからである。われわれは存在するように見えるものを、存在するものと思いこんでいる。ある人間がこの町を通り抜けて、実在の姿だけを見るとしたら、コンコードの中心にある「ミル・ダム商店街」などはどこへ消えてしまうことやら。もしそのひとが、町で見たさまざまな実在の世界をありのままに語ってくれるとしても、われわれは、彼の説明しているのがこの場所のことだとは気づかないだろう。教会堂、裁判所、刑務所、商店、住宅などを見かけたら、徹底的に凝視することによってどんな正体があらわれるか、口に出して言ってみるとよい。話しているあいだに、それらはこなごなに砕けてしまうだろう。(上巻171頁〜174頁)



生であろうと死であろうと、われわれが求めるものは実在だけである。もしわれわれがほんとうに死にかけているのなら、喉がぜいぜい鳴る音を聞き、手足の先がつめたくなるのを感じ取ろうではないか。もし生きているのなら、なすべき仕事にとりかかろう。
 時は私が釣り糸を垂れる小川にすぎない。私はそこで水を飲む。だが飲みながら砂底を見て、それがはなはだ浅いことを知る。薄っぺらな小川は流れ去り、あとには永遠が残る。私はもっと深く飲みたいのだ。川底に星の小石をちりばめた、あの大空で釣りがしたいのだ。私は一を数えることすらできない。アルファベットの最初の文字も知らない。いつも自分が生まれた日ほど賢くないことを悔やんでいる。知性とは、大きな肉切り包丁のようなものだ。事物の秘密をさぐりあて、切りこんでいく。私はもう必要以上に手を使いたくない。頭を手足のように働かせたい。私の最高の能力はすべて頭部に集中しているのがわかるのだ。ある種の動物にとっては鼻や前足が穴を掘る器官であるが、私の場合は頭がその役目を果たしていることを、本能が教えてくれる。だから私は頭を使って、こうした山々の坑道を掘り進めてゆきたい。どうやらこの付近には、とびきり豊かな鉱脈があるらしい。占い棒と、かすかにたち昇る水蒸気とによって見当がつく。ではこの辺から掘りはじめることにしよう。(上巻177頁)

われわれがほんとうに活用する時間、活用できる時間とは、過去、現在、未来のいずれでもないのである。(上巻179頁)