乱場(ナンジャン)


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姜信子『日韓音楽ノート---<越境>する旅人の歌を追って---』(岩波新書、1998年)に「乱場(ナンジャン)」という魅力的な言葉が登場する。それは元来、「市が立つときに立ちあらわれる混沌------活気に満ちた空間------をさす韓国伝統の言葉」であり、「混沌とした状態で入り乱れる人や歌やエネルギーが、栓をポンと抜くようにして閉塞した『場』に風穴を開けたところで立ちあらわれる、そんな動的なイメージを持った空間」をさす言葉であるという(226頁)。ともすれば、純粋や真実や同一の物語を指向し、閉塞しがちなこの世を気持ちよく乱す場。異質な声や歌やリズムが同時に響く混血的で創造的な空間としての「乱場」。そんな空間を出現させたい。そんな乱場として生きたい。

 そんなわたしにとって「乱場」とは、一つのアイデンティティには到底まとめられないわたしの内面こそが創造的空間となること、そこがわたしの旅の出発点なのだということをただ一言で言いあらわす言葉として立ちあらわれてきたのです。それは、越境の旅を行く者たちが放つ声に共鳴するわたしが、現実にこの世界をどんな姿勢でどんな意志を持って生きてゆくかという問題の答えでもありました。
 思うに、この世界に生きるわたしたち一人ひとりこそが、実は、美しい和音とリズムのなかで閉じている「みんな」の世界の栓を抜く「乱場」なのです。そのことに気づいた者から声を発してゆく。動きはじめる。互いの声を励ましとして、この世界にただ安住しないためのネットワークを編み上げてゆく。この乱場たちのネットワークから発せられる無数の異なる声が、世界をより良く書き換えてゆくのだと、わたしは信じています。信じるから希望も見えてくるのです。
 遠く離れたところで語るように歌うあなたの歌声に耳をかたむけつつ、わたしもまた歌うように語っていくつもりです。(228頁)