a happy new year from a Ferris wheel


子供の頃からなぜか観覧車に惹かれる。今でも観覧車が視界に入ると目が離せなくなり、何とも言えないイイ気持ちになる。陶酔する。乗れるものなら、いつでも乗りたいが、たいがい乗れない理由があって、今までずいぶん乗り損なってきた。数年前、横浜みなとみらいでコスモクロック21に乗り損なったことを今でも悔やんでいる。そのとき私は二人の紳士と雑談しながら、そのすぐそばを歩いていた。私は話には上の空で、心は目の前の巨大な観覧車のことで一杯だった。私は半ば冗談半ば本気で、あれに乗りたいね、と口にしたが、二人は全く反応しなかった。百パーセント冗談と受け取られたのだろう。彼等にとって大の大人三人で観覧車に乗るなどということは信じられないことだったちがいない。その前後も似たような状況における似たような理由から幾つもの観覧車に乗り損なってきた。昔、家族で札幌の中島公園に遊びに行ったとき、頂点十メートルに満たない小さな観覧車になぜかちょっと引いた女房と一緒に乗った時、彼女が極度の高所恐怖症であることを知った。それ以来、女房とも乗ることもなく現在に至っている。



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年末年始を道南の港町にある女房の実家で海の写真を撮ったり、ふらりと立ち寄ったブックオッフで見つけた辺見庸の本数冊を読んだり、雪かきしたりして、過ごした。辺見庸の『反逆する風景』(講談社文庫)の最後に「観覧車のある風景」が収められていた。まるで自分のことが書かれているようで、ドキドキしながら読んだ。観覧車なるものの造型思想や、現代文明批判に通じる意味論的分析に感心しただけでなく、地球上に観覧車ほど無意味な構造物はないが故の、観覧車フェチ(フェティシズム)とも言うべき生々しい陶酔感に深く共鳴してしまった。観覧車に惹かれる心の底をくすぐられたような気がした。例えば、辺見氏はこう書いている。

円を垂直に立てる。中心を固定してゆるゆると回す。無為にして無限の同一軌道回転である。その原形となる遊具は、史家によれば、遅くともすでに十七世紀から存在した。水車に着想したものともいわれる。人力だったそれが十九世紀に自動化し、いまに至るのだが、縦の非生産的低速回転にはなんら変わるところがない。つまり、ものみな角を整え、さらには鋭角となり流線型となり、それら造型が「進歩」と総称されるなかで、観覧車は執拗に円形でありつづけ、これまで四百年は地球の各所で悠長に回転してやまないのである。(辺見庸「観覧車のある風景」、『反逆する風景』講談社文庫、234頁)


義理の母の家からの帰途、いくつかの理由から高速道路は避けて、国道36号線を走り、登別を通り過ぎようとしたとき、右手に観覧車が見えた。登別マリンパークニクスhttp://www.nixe.co.jp/)の冬期休業中の観覧車である。乗れるものなら、乗りたい! どれほど強く思ったことか、、。心は観覧車の頂点にあるゴンドラに飛んだ。そこからみなさんに新年の挨拶を密かに送ったつもりになった。今年は「心の中にいつも観覧車を」をモットーにして、たとえ一人でもできるだけ多くの観覧車に乗ることをひとつの目標にしようかな、、。


ちなみに、この記事の題名にある通り、観覧車は英語でFerris wheelという。ウィキペディア「観覧車 」の項目には次のように書かれている。

観覧車(かんらんしゃ、Ferris wheel)は、大きな車輪状のフレームの周囲にゴンドラを取り付け、低速で回転させることで、高所からの眺望を楽しめるようにした乗り物。

観覧車の原形は、18世紀初めロシアモスクワに登場したロシア貴族の遊具であり、あらかじめ車軸に巻き付けてあったロープを人力で引っ張るものであった。現在のモーター駆動による機械式の観覧車は、1893年アメリカ人技師のジョージ・ワシントン・ゲイル・フェリス・ジュニアにより開発されたものであり、シカゴで開催されたWorld Columbian Expositionのアトラクションの1つとして建設された。これはパリのエッフェル塔に対抗して作られたものであり直径75.5m、2,160人乗りと当時としては巨大なものだった。1995年に再建されたシカゴNavy Pierの観覧車は直径も42mと小さなものになっている。

欧米の観覧車はその当時の香りを残しゴンドラには窓がなく風とともに多少の恐怖も感じられるものが多い。


なるほど。しかし、辺見氏も書いているように、高さやサイズは観覧車の本質にはまったく関係ない。どの観覧車もいわば世界の中心に存在し、一番高く、しかも無意味なのである。せっかくだから、参考のためにも、辺見氏が発見した「観覧車の特徴一覧表」、私に言わせれば、「観覧車の七定理」を紹介しておこう。

  • ひとつ……観覧車はいくら回転しても一ミリだって前進はしない。永遠に宙を浮いては沈み、ひたすらにめぐり、めぐるだけだ。
  • ひとつ……観覧車には、かなりの高い確率で、現役のしけた男女が夢遊病者みたいに乗ってしまう。現役の景気のいい人間はまず乗ろうとはしない。視野にも入れない。第一、観覧車は景気のいい人間には似合わない。
  • ひとつ……観覧車は大地の裂けめから突然に生えでた花の、その残影みたいに、はかない記憶でしかない。
  • ひとつ……観覧車はなにも主張しない。
  • ひとつ……観覧車にはなんの意味もない。
  • ひとつ……いかなる観覧車も世界で一番高い地点からの眺望を保証している。複数の観覧車間には高さの相対差が存在しない。
  • ひとつ……観覧車は人が無意識にこしらえた意味抜きのアジールであり、無意味の避難所である。(239頁〜264頁)


気の早い、理屈っぽい人は、「観覧車の公理」が気になるところだと思われるが、それについては辺見氏の次のような印象記が参考になるかも知れない。

 それにしても、観覧車って花によく似ている。自然文化園の小観覧車から降り立って私は思った。ゴンドラは花弁だ。ここのはキク科のシネラリアみたいだ。三分十秒の無意味を終えて私は観覧車を背にして歩く。すると花の思い出がてもなく薄れるように、乗ったばかりの観覧車の記憶はたちまち希薄になっていく。(241頁)


というわけで、遅ればせながら、謹賀新年。今年もよろしくお願いします。