チャトウィンの歩く哲学


ドイツの映画監督ヴェルナー・ヘルツォークWerner Herzog, 1942年生まれ)との出会いを綴った散文のなかで、ブルース・チャトウィンは二人が共有する<歩くこと(walking)>にまつわる信念あるいは哲学について次のように語っている。

 そして(ヘルツォークは)歩くことの持つ神聖な面について、まともな会話のできる唯一の相手だった。私たちは二人とも、歩くということはただ単に健康維持につながるだけではなく、この世の邪悪を正すことのできる詩的な活動であると信じていた。彼は断言していた。「歩くことは美徳であり、観光旅行は大罪である」この哲学に従って、彼は真冬に歩いてロッテ・アイスナーに会いに行った。

 「ヴェルナー・ヘルツォーク・イン・ガーナ」(1988年)より、『どうして僕はこんなところに』153頁

原文はこうである。

 He was also the only person with whom I could have a one-to-one conversation on what I would call the sacramental aspect of walking. He and I share a belief that walking is not simply therapeutic for oneself but is a poetic activity that can cure the world of its ills. He sumes up his position is a stern pronouncement: ‘Walking is virture, tourism deadly sin.’ A striking example of this philosophy was his winter pilgrimage to see Lotte Eisner.

  What Am I Doing Here, pp.138–139

問題は歩き方にあるだろうが、とにかく、己も属するこの世の病いあるいは病んだこの世を治療するためには歩き続けなければならないということだろう。ちなみに、凍てついた雪道を歩いていると、時々ヘルツォークの『氷上旅日記 ミュンヘン - パリを歩いて』(asin:4560042969)を思い出す。


また、チャトウィンが敬愛した俳優兼作家のノエル・カワードNoël Coward, 1899–1973)から受けたという生き方についての忠告の言葉は意味深長である。

 帰り際にカワードは私に言った。「君に会えて実に楽しかった。だが、残念ながら二度と会うことはないだろう。私ももう長くはないからね。しかし、お別れに一言忠告をさせてもらうならば、『けっして芸術的であろうとしてはいけない』」
 以来、私はつねにこの忠告に従ってきた。

 「私のモディ」(1988年)より、『どうして僕はこんなところに』403頁

原文はこうである。

 On the way out from lunch he said, ‘I have very much enjoyed meeting you, but unfortunately, we will never meet again because very shortly I will be dead, But if you'll take one parting word of advice, “Never let anything artistic stand in your way.”’
 I have always acted on this advice.

    What Am I Doing Here, p.366

微妙なところだが、囲い込まれたテリトリーで芸術的に立ち止まってしまわずに、荒野を歩き続けろ、というニュアンスだろうか、、。