Sainte Terre, Sainte-Terrer, Saunterer


ソローの遺作“Walking”の邦訳で、大西直樹氏が「そぞろ歩き」と訳し、故木村晴子氏が「散策」と訳した英語 ‘sauntering’ は、ソローによれば、聖地を意味するフランス語 ‘Sainte Terre’ に由来するという。そんな語源説を述べるくだりは原文ではどうなっているか気になって調べてみた。引用は、木村氏も底本に使用したAMS版のソロー全集(The Writings of Henry David Thoreau, 20vol., 1968)の第5巻(V Excursions and Poems)からである。


 I have met with but one or two person in the course of my life who understood the art of Walking, that is, of taking walks, – who had a genius, so to speak, for sauntering, which word is beautifully derived “from idle people who roved about the country, in the Middle Ages, and asked charity, under pretense of going à la Sainte Terre,” to the Holy Land, till the children exclaimed, “There goes a Sainte-Terrer,” a Saunterer, a Holy-Lander. They who never go to the Holy Land in their walks, as they pretend, are indeed mere idles and vagabonds; but they who do go there are saunterers in the good sense, such as I mean. Some, however, would derive the word from sans terre, without land or a home, which , therefore, in the good sense, will mean, having no particular home, but equally at home everywhere. For this is the secret of successful sauntering. He who sits still in a house all the time may be the greatest vagrant of all; but the saunterer, in the good sense, is no more vagrant than the meandering river, which is all the while sedulously seeking the shortest course to the sea. But I prefer the first, which, indeed, is the most probable derivation. For every walk is a sort of crusade, preached by some Peter the Hermit in us, to go forth and reconquer this Holy Land from the hands of the Infidels. (pp.205–206)


ご覧のように、Sainte Terre(聖地)が Sainte-Terrer(聖地巡礼者)に、そして Sainte-Terrer(聖地巡礼者)が Saunterer(ソンタラー、散策者)に転じたのではないかと述べられている。原文と対照すると、両訳者の苦労が偲ばれる。二つの訳文を再度引用しておこう。


大西直樹訳

 これまでの生涯を通じて、ウォーキングの技法を心得た人物には一人か二人しかお目にかかったことがない。いわゆる、そぞろ歩き(ソンタリング)というウォーキングの才能をそなえた人物のことである。この言葉の語源をめぐる説にはある種の美しさがある。かつて中世の時代、聖なる・地(サンテ・テール)、つまり聖地へ向かうという名目で、施しを乞いながら国中を歩き回る、定職をもたない人たちがいた。その人たちを指して子どもが「サンテ・テールが来たよ」と叫んだことから、聖地に向かう者(ソンタラー)、という語が発生したのだ。聖地を目指しているというのはまやかしで、徒歩で辿りつくことなどありえず、ただ定職に就かず浮浪者として徘徊していただけの話である。しなしなかには、実際に聖地を目指していた人も存在し、その本来の意味で私はソンタリングという語を用いたい。一方、別の説によれば、無・地(サン・テール)、つまり「土地なし」「家なし」から生じ、原義では、特定の家をもたないが、どこででも構わずくつろげる、といった意味だという。これこそソンタリングの秘訣というべきものである。いつも家でじっと腰掛けてばかりいる人こそ、極めつきの浮浪者であるといえようが、本来の意味におけるソンタラーは決して浮浪者ではない。川は蛇行してはいても、ほんとうは休むことなく海への最短距離を求めているものだが、それと同様である。私としては、最初の説が語源としてもっともらしく思え、それを取りたいと思う。なぜなら、ウォーキングはどんなものであれ、ある種の十字軍であり、われわれの心の中に棲む隠者ピーター某の導きで進軍し、異教徒の手から聖地を奪還する聖戦だからである。(ヘンリー・D・ソロー著『ウォーキング』4頁〜5頁)


木村晴子訳

 ぼくは、これまでの人生において、歩く術、つまり散歩の術を心得ている人には、一人か二人しか会ったことがない。いわば「散策(ソーンター)」の天才なのだが、このソーンターという言葉は、「中世において、田舎をうろつき、サント・テール------聖地------に行くという口実で人々の施しを求めた怠け者」に由来した美しい言葉だ。そのうち子供たちが、「サンテラーが行くよ」というようになり、ソーンタラーとなったが、散策者(ソーンタラー)とは聖地巡礼者なのだ。聖地に行くふりをしながら、散策の末、聖地にはけっして達しない連中は、まったく怠け者や放浪者でしかない。しかし、聖地に達する人は、ぼくが意味するようなよい意味での散策者である。ところが、その言葉の語源はサン・テール、つまり国や家を持たないということだとする人びとがいる。そうすると、よい意味では、特定の家を持たないがどこででも同じようにくつろいでいられるという意味になる。なぜなら、これこそぶらぶら歩きを楽しむ秘訣なのだ。いつも家の中に座ったきりの人こそ、この世でもっとも著しい放浪者であるかもしれない。しかしこのよい意味での散策者は、曲がりくねった川と同様に放浪者ではない。川は終始海への最短の水路を、倦むことなく探しているのだから。しかし、ぼくは第一の語源が実際もっとも確からしいので、そちらのほうを採りたい。なぜなら、一回一回の散歩は、ぼくたちの内部に住む隠者ピーター [1050?–1115? フランスの修道士。十字軍を唱導] が、行って異端者の手から聖地を奪回せよと説いたために行なわれる、一種の聖戦といえるからだ。(『アメリ古典文庫4 H・D・ソロー』研究社、1977年、131頁〜132頁)