悲しみを聴く石


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『灰と土』(asin:4900997080)につづいて、詩人関口涼子さんの邦訳でアフガニスタン出身の亡命作家アティーク・ラヒーミーの『悲しみを聴く石』を読んだ。静謐な佇まいの本だ。昨年(2009年10月)、白水社の「エクス・リブリス(Ex Libris)」叢書の一冊として刊行された。最近、「アフガニスタン」筋と「女の物語」筋が交差する辺りで巡り合った。邦題の「悲しみを聴く石」は「忍耐の石」を意味する原題「サンゲ・サブール(Syngué Sabour)」に由来する。

原題の「サンゲ・サブール(Syngué Sabour)」とは、ペルシア語で「忍耐の石」。その魔法の石に向かって、人に言えない不幸や苦しみを打ち明けると、石はそれをじっと聞き、飲み込み、ある日、粉々に打ち砕ける。その瞬間、人は苦しみから解放される、というペルシアの神話からとられている。(本書カバー裏より)


次のような印象的な献辞に目がとまる。

夫に惨殺されたアフガン詩人、N・Aの思い出のために書かれたこの物語を、M・Dに捧ぐ。


「夫に惨殺されたアフガン詩人、N・A」とは女性詩人ナディア・アンジュマンである。「M・D」は不詳。「訳者あとがき」で関口さんは次のように述べる。

2005年、ラヒーミーは、アフガニスタンにあるヘラートの文学会議に招かれていたましたが、突如その会議が中止になったという連絡を受けます。文学会議の企画者の一員であったヘラート在住の26歳の女性詩人、ナディア・アンジュマンが夫に殺害されたためでした。若くしてその作品が認められた、才能ある詩人であったアンジュマンに襲いかかったこの悲劇に、彼女の読者でもあったラヒーミーはショックを受け、早速現地に向かいます。そこで、妻を殺害した後にみずからも自殺を図り、意識不明で入院している夫を目にします。
 最初のうちは妻の文学活動を認めていた、教養もある夫が、やがて自分の妻が家の恥だと思いこむようになり、ついには彼女を殺害するという行為に及んだのは何故だったのか、そのような暴力が可能になってしまった瞬間を見極めたかった、とラヒーミーは言います。そして、夫の立場からこの小説を書き出しましたが、続けることが出来ませんでした。ラヒーミーの言葉を借りると、「この小説の中心人物である女性が、私の声を奪ってしまったからなのです。そのせいで私は、作品の中の夫のように身動きが出来なくなってしまいました。彼女は私を、天井に設置されたカメラのように定位置につけ、(中略)そこで、『いいからそこに座って私の話を聞きなさい』と言ったのです。そういうわけで、この小説では、語り手は部屋から出ることが出来ません。この語り手は、舞台を歴史的、地理的に位置づけることも、登場人物をその名で呼ぶことも出来ないのです」
 アンジュマンの不幸なエピソードはこの小説の筋とは直接には関わりを持ちませんが、おそらくは人生半ばでその声を封じられてしまった多くの女性たちの代表として、ラヒーミーはこの小説を彼女に捧げています。


なるほど。たしかに本書は女の語り部に憑依された非人称の語り手が語るという手の込んだ仕掛けが功を奏している。しかし正確には、本書はM・Dに捧げられている。M・Dとは誰?


本書の扉にはアントナン・アルトーの次のような言葉が引用されている。

身体から、身体を通して、身体とともに、
身体に始まり、身体に終わる。


本書では、「魂」と対比された「忍耐の石」としての「身体」が性差を越えて「魂」を裁くというモチーフが劇的に展開され、最後は次の一行で結ばれている。

風が立ち、女の身体の上を、渡り鳥が飛ぶ。


「忍耐の石」が打ち砕かれて立った風に揺れるカーテンの絵柄の渡り鳥はどこへ「渡る」のか?


本書では、畠山直哉のユニークな写真集『A BIRD』(Taka Ishii Gallery, 2006)の一枚がカバーに使われている。岩石の爆発によって生じた爆風に煽られる鳥。本質的に「渡り鳥」である鳥。


鉱山で石灰岩を採掘するために爆破する、その爆発を収めた「ブラスト」というシリーズがあり、130回目の「爆破」の連続写真が『A BIRD』という作品になりました。
『A BIRD』には、爆破する直前にたまたま居合わせた鳥が、爆発に遭遇し、爆風が過ぎ去ったあとまでフレームから外れることなく、連続写真の中で飛び続ける様子が撮影されています。(cdc blogより)




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本書カバー裏見返しに掲載されたラヒーミーのポートレイトを見ていて、彼が肩にかけたストールが気にかかった。ブルース・チャトウィンアフガニスタンで撮影したチャドル(chador)、イスラム圏で女性が頭から全身を覆うように着用する美しく染め上げられた布をしきりに連想した。言葉になることを禁じられた声が風になびく布となって何処へと渡る。ウェブ上に散見される他のポートレイトでも彼は必ず肩にその時々の服装の色に合わせた色彩のストールをかけている。まるでお守りのようだ。おそらくラヒーミーは「人生半ばでその声を封じられてしまった多くの(アフガニスタンの)女性たち」(154頁)の声が染められ縫い込まれたような布を身にまとうことを或る時決意したのではないかと勝手に想像する。


関連エントリー


参照

Lectomaton, Syngué Sabour, Pierre de Patience, d'Atiq Rahimi, 1:38(『悲しみを聴く石』の朗読)


Dailymotion - Atiq Rahimi : Prix Goncourt 2008 - une vidéo Actu et Politiqueゴンクール賞受賞時のインタビュー)


Earth and Ashes, 2:31(映画『灰と土』より)