耳と声

北海道も酷暑に近い中、盆の最中に、汗にまみれながら、8月8日に記録した、関口涼子訳、アティーク・ラヒーミー著『灰と土』を読んでいた。読むというか、アフガニスタンで灰になった人々とその灰が土と混じり合った「灰色の土」を舐めるような苦い体験をしていた。

灰と土

灰と土

ソビエト軍の襲撃によって破壊された村で生き残った「きみ」と二人称単数で指示される主人公の老人ダスタギールが砲撃の衝撃で耳が聞こえなくなった幼い孫のヤースィーンを連れて、その村から離れた炭坑で働く息子モラードに彼の妻と母親の死を知らせに行く「旅」の途上の顛末を陰翳深く描いたこの作品の中で、突然聴覚を失った孫が直面する世界の現実を、「耳が聞こえない」という否定的で受け身の視点から「声を取られた」という視点に反転して鮮やかに描写する場面に感動した。

「あんたの孫はどうかしてるよ!石を番小屋に投げ始めたんだ。止めろって言ったって聞きやしない。言うことがわかってるんだか、まったく……」
「申し訳ないね、この子は耳が聞こえないんだ、何も聞こえないんだよ……」

 きみはヤースィーンを店の方に連れ戻す。ミールザー・カディールが出てきて微笑みながら番人の方へ向かう。

 きみは、柱の根元にふたたび腰を下ろし、ヤースィーンの頭をきみに引き寄せる。

 ヤースィーンは泣かない。彼は、いつものように、当惑した顔をしている。

 彼は尋ねる。
「戦車はここにも来たの?」
「私に何がわかるっていうんだ。静かにしてなさい!」

 きみは黙り込む。きみたちは二人とも、そういった質問や答えが何の役にも立たないことをよく知っている。それなのにヤースィーンは続ける。
「戦車は来たにきまってるよ。お店のおじさんは声がない。兵隊も声がない……。じいちゃん、ソ連軍はみんなの声を取りに来たの?声を取ってどうするの?どうしてじいちゃんはあいつらに声を取らせちゃったの?取らないとじいちゃんを殺しちゃったから?ばあちゃんは声を取らせなかった、それでばあちゃんは死んじゃった……。ばあちゃんがもし生きていたら、バーバー・ハールカシュのお話をしてくれたのになあ。あっ、ちがった、もしばあちゃんが生きていたら、声はなかったんだ……」

 彼は一瞬黙り、また話し始める。
「じいちゃん、僕は声があるの?」
 答えても仕方がないとわかっているのにきみは答える。
「あるとも!」
 彼は質問を繰り返す。きみは彼を見つめ、わからせようときっぱりと頭を縦に振る。子どもはまた黙り込み、それから自問する。
「そしたら、どうして僕は生きているんだろう」

 彼はきみの上着に顔を埋める。きみの胸に耳をくっつけ、体の中からの音を聞こうとしているかのように。何も聞こえない。目を閉じる。彼の体の中では、すべてがしっかり響いているのだ。間違いない。もしきみがこの子の中に入って、バーバー・ハールカシュの話をしてやれさえしたら。
(56頁〜59頁)

現実の多層性に関して、聴覚的観点から思いがけないヒントを与えてくれた場面の描写だった。

ちなみに、訳者の関口涼子さんは、著者のラヒーミーはペルシャ文学の古典的教養(フィルドウスィーの『王書』他)を身につけているのはもちろん、フランス文学では現代作家のデュラスやベケットから簡潔な文体、シナリオと小説の中間的なエクリチュールを摂取していること、さらに本書における二人称単数「きみ」の使用に関しては、主人公の内面の対話のみならず、その動きを外部から指示する声ではないか、と興味深い指摘を行っている。(「訳者あとがき」124頁〜125頁)