香りのよいレンタカンバ(a sweet-scented black-birch)?


山田正雄さんのソローに関するある論文には、「ウォルデン池畔でソローが観察した哺乳類、爬虫類、植物、魚類、鳥類、昆虫類の名称一覧リスト」が掲載されている。それによれば、『ウォールデン、森の生活』に登場する植物類は72種、鳥類は60種、哺乳類・爬虫類・魚介類は56種にのぼる。ソローの細かい観察は『ウォールデン』だけではなく、例えば、『メインの森』でも発揮されていて、ソロー自身がまとめた「一覧表」には、樹木は23種、小さな木々と灌木は38種、小さな灌木と草本植物は145種、より下等な種類のもの9種、野鳥は40種、四足獣は8種、が記録されている。したがって、ソローの自然に関わる著作を読む時には、登場する動植物名を片っ端から調べるという面倒ながらも楽しい作業が同時進行する。時にはすっかりそちらに迷い込んでしまい、その日の内に本文に戻らないこともある。ちなみに、『コッド岬』は幸いなことに荒涼たる岬、海岸が舞台であり、登場する動植物は見知ったものに限られている。


たとえば、『ウォールデン』において、ソローがあるアイルランド人の森の先住者の記憶と住居跡の様子について語る次のような場面にはわずか数行に馴染みのるあるものから見知らぬものまで8種の植物が登場する。それらの植物を知らなければ、この場面を生き生きと思い描くことはできない。

日あたりのいい草地には、ストロベリー、ラズベリーキイチゴ、ハシバミの茂み、ウルシなどが生えており、かつての暖房の隅には、リギダマツか節くれ立ったオークの木が生え、香りのよいレンタカンバらしい木が、敷居石のあったあたりで風にゆれている。(岩波文庫版『ウォールデン』下巻164頁) 


この箇所で私は「香りのよいレンタカンバ」にひっかかった。「レンタカンバ」? どんなカンバ(カバノキ)だ? 「レンタ」って何? そして何より、どんな「香り」なんだ? 「香りのよいレンタカンバ」は原文では‘a sweet-scented black-birch’ である。ブラックバーチ、黒い樺の木か。それにしても、どんな香りなんだろう? その前に学名は ‘Betula lenta’ であることが分かった。ここに「レンタ(lenta)」があった。lentaは「堅い」を意味する種小名として使われている。Betula [ベトゥラ] はカバノキ、Birchを意味する属名である。ベトゥラ・レンタで堅い樺の木という意味だった。しかし「堅いカンバ」では様にならないので、「レンタカンバ」が使われたのだろう。


しかし、少なくもとウェブ上には「レンタカンバ」という植物名に直接関係する日本語情報は存在しない。唯一、深沢和三さんのカナダの森林と樹木に関する論文のなかに、括弧付けで登場するだけである。

チェリーバーチ(レンタカンバ)はスイートバーチまたはブラックバーチとも呼ばれる。樹皮が茶褐色から黒で、小枝を折るとよい香りがするウインターグリーンという精油のためである。


日本語名としては「レンタカンバ」よりも「アメリカミズメ」の方がよく使われているようだ。「ミズメ」は「カバノキ」の異名で、ミズメ(水芽)は,枝を傷付けると樹液が滴ることに由来するという。「ミズメ」からはアズサ,ヨグソミネバリ,アズサカンバなどの他の異名を次々と辿ることができるが、ここでは止めておく。


深沢さんの記述には「小枝を折るとよい香りがする。ウインターグリーンという精油のためである」という「香り」に関する貴重な情報も織り込まれていた。「ウインターグリーン」? 「精油」? 「ウインターグリーン」とは、シラカバから採れる基本精油エッセンシャルオイル)の名称であり、主要成分のフェノール類のサリチル酸メチルが特有の芳香、あのサロメチールの香りをもつという。


森のなかでソローの鼻腔を刺激したレンタカンバの香りはサロメチールのような「香り」だったのだ。もちろん風に揺れるレンタカンバから漂ってきたのは仄かな自然な香りだったように思われるが。こうしてようやく150年余り前のソローの体験に嗅覚的に近づくことができた。だから、どうってこともないが、「レンタカンバ」や「香り」を浮遊する記号のままに読み進めるより、自然や感覚に繋ぎ止めながら読み進めた方が面白い。 


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