屋根のない本、棚に置いておくわけにはいかない本



asin:4880593540


本書はソローの処女作の初の日本語全訳です。44歳で亡くなるまでにソローが出版した本は、この『コンコード川とメリマック川の一週間』(1849年5月刊、以下『一週間』と短く呼びます)とあの有名な『ウォールデン−森の生活』(1854年8月刊)の二冊だけでした。今でこそ大きな名声を得ているソローですが、生前はさっぱりだったわけです。


実際に、『一週間』が出版されてから4年後の1853年10月28日の日記によれば、『一週間』の初版1000冊のうち売れたのはわずか200冊余りで、800冊近くを全部自分で買い取ったそうです。そのうち75冊は知人にタダであげて、残りの700冊余りは彼の書斎にうずたかく積み上げられていたそうです。もちろん、かなり落ち込んだでしょうが、ソローはその日の日記では、「売れない作家」である自分を徹底的に突き放して、ユーモアさえ交えて冷静に語っているところが面白いと思います。


例えば、運送業者が、と言っても19世紀半ばの当時は荷馬車ですが、運んで来た大量の本を二階にある書斎まで何度も階段を昇り降りして担ぎ上げた時に、たぶん肩から背中にかけての負担が相当きつかたのでしょう、自分の著書が「名声よりも実体を持ったものだということをぼくの背中は思い知らされた」と述べたり、「900冊近い蔵書を持っているが、そのうち700冊以上は自分の著書だ」と述べたり、書斎に積み上げられたもの言わぬ自分の本を眺めては、「今やぼくは自分が何のために書いているのかをこうして知ることができる、自分の努力の成果というものをこうして見ることができる」と述べたりして、その日の日記をこう結んでいます。

実際こういう結果のほうが、100人の人がぼくの商品を買った場合よりも、ぼくに大きな霊感を与えることができてよかったのだと信じている。このほうがぼくのプライバシーが冒されることは少なく、ぼくはより自由なままでいられるのだ。(木村晴子訳「日記」より、『アメリ古典文庫4 D・H・ソロー』325頁〜326頁)


ちょっとひっかかったので、原文に当たってみました。

Indeed, I believe that this result is more inspiriring and better for me than if a thousand had bought my wares. It affects my privacy less and leaves me free.(The Writings of Henry David Thoreau – Jounal II, vol.11, AMS, p.460)


案の定、「100人」ではなく、「1000人」でした。それにしても、負け惜しみの弁に聞こえなくもありませんが、さすがに、「飼い馴らされぬ、未開の、自由で野性的な思考(the untamed, uncivilized, free, and wild thinking)」を尊び、「詩は私たちの場所、孤独な場所から『知性』へ向けてなされる伝達である(poetry is a communication from our home and solitude addressed to all Intelligence)」と語った人です。このような失意の出来事さえ自分を心底から鼓舞するものとして捉え返す精神力は並大抵、普通じゃない。


さて、本書の内容については、まずはその全体像、輪郭を知る手掛かりとして、訳者の山口晃さんが「訳者あとがき」のなかで引用しているプリンストン大学から出版された著作集のリンク・C・ジョンソンによる「解説」が、さすがに簡にして要を得たもので、大変参考になります。

……たしかに『コンコード川とメリマック川の一週間』は、七日間の川旅の話である。本流と支流において川の上での、また川岸での生活について積み重ねられた豊富な印象でできあがっている。しかし別の面からいうと、この川旅は、主題というよりも、時の流れと、永遠に流れる川について繰り広げられる瞑想を導き出すものなのである。序章「コンコード川」で、ソローは故郷の川の岸辺に立ち、静かな流れを観察する。それは「宇宙、時間、この世のすべてのものと同じ理法に従う、移ろい行くあらゆるものの表象」(16頁)であり「すべての川が海に流れ込む」世界に共振している。ソローは旧約聖書「伝道の書」の一節を喚起するかのようである。「……海は満ちることがない。川はその出てきたところにまた帰って行く」。『一週間』は、自然の中だけでなく、ニューイングランド地方の歴史、西洋文学、全人類の精神的な事柄、こうしたことにおける一連の永遠的な反復を叙述する。ヒンドゥー教徒の古代の知恵、ホメーロスやオシアンのような叙事詩人、アメリカ先住民の原始的な簡潔さを呼び戻すことで、ソローは、ある種の価値が本当に失われてしまうことはなく、それらは最終章の確信した表明「時の流れの中にさえも、その流れによって時が自らを回復させる何かがある」(400頁)ことに、私たちを準備させる。変化に対するこの永遠性の勝利の決定的な主張は、創世記をめぐるソローの個人的な著書にふさわしい言葉であろう。それは水に面した際の神の霊の原初の動きを意識した、人間と宇宙の精神的な再創造である。(473頁〜474頁)


ことさらに、アートとか表現とか言わなくても、生きることがいつもすでにアートであり、表現であり、詩にすらなりうる、とすれば、誰でも無意識に目指しているのは、本当は自分の「創世記」を持つ、というか、「創世」を生きる、ということではないだろうかと私は思っています。ですから、本書のようなソローによる七日間の「創世」の旅の記録が面白くないわけがない。ちなみに、ソローさんは次のようなかっこいい二行も残しています。

ぼくの人生は、ぼくの書きたい詩だった。
だがその詩を生きるので精一杯、歌う余裕はなかった。

島田太郎訳、『アメリ古典文庫4 H・D・ソロー』研究社、1977年、297頁)*1


原文はこうです。

My life has been the poem I would have writ,
But I could not both live and utter it.

Henry David Thoreau: A Week on the Concord and Merrimack Rivers; Walden; or Life in the Woods; The Meine Woods; Cape Cod, The Library of America, 1985, p.279)


実は、『一週間』が出版されてから2年後の1851年6月29日の日記で、ソロー自身が本書の特徴について次のように述べているのが非常に印象的です。

私の『一週間』の一つの特徴は、天空に向かって開かれているエジプトの神殿にあてはまる言葉を使うなら「空の下の」ものだったと思う。(中略)草原や森の香りほどには、書斎や図書館の匂いは、詩人の屋根裏部屋の匂いさえ、ないと思う。青天井の、屋根のない本であり、天空にみなぎる精神のもとに開かれていて、その精神に満たされ、天気に関係なく、棚に置いておくわけにはいかない、そういう本だと思う。
ソロー『日記』1851年6月29日(「訳者あとがき」より、山口晃訳『コンコード川とメリマック川の一週間』而立書房、2010年、472頁)

I thought that one peculiarity of my “Week” was its hypœthral character, to use an epithet applied to those Egyptian temples which are open to the heavens above, under the ether. … I trust it does not smell [so much] of the study and library, even of the poet's attic, as of the fields and woods; that it is a hypœthral or unroofed book, lying open under the ether and permeated by it, open to all weathers, not easy to be kept on a shelf. (The Writings of Henry David Thoreau – Jounal II, vol.8, AMS, pp.274–275)


「青天井の、屋根のない本であり、天空にみなぎる精神のもとに開かれていて、その精神に満たされ、天気に関係なく、棚に置いておくわけにはいかない、そういう本」が面白くないわけがないと私は思います。それにしても、自分が書いたものが、160年後に異国の言葉に翻訳されて読まれることになろうとは、さすがのソローさんも想像することはできなかっただろうと思うとちょっと愉快です。

*1:山口晃さんの新訳では、「私の生活は私が書こうとした詩であった。/しかし生きることと表現することの両方はできなかった。」(山口晃訳『コンコード川とメリマック川の一週間』389頁)と直訳調です。