ジョナス・メカスの日記映画、ポリティクス、そして汎神論


Film and Film and Film: An Interview with Jonas Mekas


すでに「千夜一夜」企画の観点からだけ言及した、 Bright Lights Film Journal の2009年11月号に掲載された上のインタビューは、昨年9月にパリのRe: Voirから150頁の冊子付きのDVD版、Walden - Diaries, Notes and Sketches by Jonas Mekas が発売されたことを受けてなされたものであるが*1、インタビュアーのジョン・ランティエ(Jon Lanthier)よる、正面から深く切り込む質問のおかげで、メカスの懐の深い思想がいつも以上にオープンに表明されていて、示唆に富むものになっている。ここでは、インタビューの主な論点にもなっている、日記映画(diary film)の本質、彼のラジカルな政治観、そして彼の一種の信仰について、翻訳紹介したい。原文は上のリンク先を参照してください。


先ず、日記映画の本質をめぐる問答から。

興味深いのはあたなが「映画を作る人たち(those who make films)」という言い方をすることです。というのも、これまでもあなたは自分が映画制作者(filmmaker)というよりはフィルマー(filmer)であると何度も述べてきたからです。

そう。映画制作者にはたいてい脚本、制作責任者などがつきものだが、私には脚本もないし、制作責任者もいないからね。私はただ、瞬間瞬間、毎日毎日撮るだけ。何も計画しない。だから、いわゆる映画制作とはかなり違うことをやっている。映画制作では、チームを作る。脚本、役者、制作責任者を持つことになる。それが映画制作だ。だが、私はそんなことをしない。私は通りにいる人や、花なんかをただ撮るだけだ。それがフィルミング(filming)。

あたなはご自分の日記映画をジャンルとしてのシネマ・ヴェリテCinéma vérité)に属すると考えていますか?

否。シネマ・ヴェリテは前もって計画されたものだ。私の場合は、脚本もない、覚え書きもない、何も前もって計画はしない。私はただ撮って、撮って、撮るだけ。そしてその後いくつかのシーンを継ぎ合わせる(splice scenes together)。だが、シネマ・ヴェリテではいつも主題がある。リーコックの『椅子』(The Chair)のようにね。それは非常に人道的な観点から撮られた。シネマ・ヴェリテではいつも映画制作のためのいつくかの理由があった。私に理由なんかない。たしかに、『椅子』はハリウッド映画や大規模に上映される映画よりは現実主義的だが、その内容はやっぱり . . . そう、結局はほとんどハリウッドのやり方と同じやり方のアプローチなんだ。

しかしあなたの映画はシュールレアリズム的だと思いますが。

私の作品のなかに「シュールレアリズム」は存在しないのは明らかだと思う。シュールレアリズムは特別な時代の様式だった。私の映画はシュールレアリズム的ではない。違う。私の映画はむしろ詩的小品に近い。舞台もない、強制もない、現実の生活なんだ。

あなたは以前こうも言いました。あなたの日記映画は他の映画よりも音楽により影響をうけている、と。それは、思うに、特に「ウォールデン」に当てはまるのではないでしょうか。

影響を受けたということはない。だが、どちらかといえば音楽の方に似ている。というのも、私はリズムで仕事をするから。影響というよりも似ているということだ。

あなたの日記映画は、空間の使い方のためか、わずかに絵画を思い起こさせもしますが。

たしかにそういうこともある。ダンスに似ているという人もいる。ダンサーもリズムに乗るものだから。どんな芸術も数多くの方法に関係している。それらを切り離すことはできない。どんな芸術の形式も、中心では本質的に異なるが、周縁ではお互いにつながっている。

なぜあなたは最初の日記映画の題名をソローから借りたのですか?

私は自然に対する思い入れが強いし、ソローには非常に親近感を覚えるからだろう。私は自然の中で育った。ニューヨークでも、しょっちゅうセントラル・パークに行って、木を見たり、雪を見たりする。ニューヨークでは雪はほとんど降らないが、私のニューヨークの映画では雪がたくさん降る!(笑い)

アンダーグラウンド映画とエマーソンの間には強力なつながりがあると指摘する人がいます。「ウォールデン」は、実存と見る行為とが鎖の輪のように繋がっている点で、非常にエマーソン主義的な映画であるように思われます。

たしかにそうだ。というのも私は見ることと見たものを記録することに取り憑かれている。それが私の人生なんだ。私のことを観淫者だと言う者もいるが、私は観淫者ではない。私は凝視者だ。私はただ見て記録したいだけなんだ。観淫者はそうとは思われずに、禁じられたものを見る者のことだ。私は人々が毎日目にするものを見る。禁じられたものはない。すべてが開放されている。私はただ見て、感心して、興奮するだけだ。

撮影しているとき、カメラを意識の延長ととらえていますか?

意識の延長というよりは、指の延長だ! ジャズのミュージシャンがサックスを吹くときのように。楽器は指の延長だ。指は送信機だ。頭、心、全身そしてあなたの全ての延長だ。私のカメラもそうなる。

それは面白い。というのは、あなたが映画の中に現われなくても、観客はあなたの存在を非常に強烈に感じることができるからです。

そう、私の撮り方や私が撮るものを通してね。いわゆる、イメージの「読み」方を知っている人なら、私に関するどんなことでも語れるさ。

「ウォールデン」の逆説のひとつは、あなたがほとんどマントラのように、幸せだと繰り返したり、見るものを単純に祝福したりを続けている一方で、亡命者としてのリトアニアへの鋭く切ない望郷の念があることです。

今の私と私がやっていることからリトアニアの記憶を切り離すことはできない。もちろん、今やその記憶は薄れてはいるが、「ウォールデン」を作っていた時にはまだ非常に強かった。10歳くらいまでに自分の中に取り込んだものによって、人は形作られるだけでなく、残りの人生が影響を受けたり、決定されたりする。私はリトアニアの農場で成長した。それから強制労働キャンプでねじ曲がった。それからニューヨーク。これは正常な発達ではない。その記憶はロケットを宇宙空間に押し出す補助推進ロケットのようなものだ。それらが離れて落ちた時に、ロケットは飛ぶ。だが、それらの補助推進ロケット、すなわちリトアニア西洋文化、ニューヨークでの最初の年月の記憶が、離れて落ちている間、私はどこかほかの場所を飛んでいる。


ポリティクスをめぐる問答から。

別のインタビューであなたは『ウォールデン』はゴダールに対する直接的な反応であり、しかもある意味で、『ウォールデン』は政治的な映画であると述べました。今でもそう感じていますか?

(笑い)あれはどちらかと言えば挑発的な発言だった。当時のゴダールや他の何人かのフランスの芸術家たちは、政党に味方したという意味で非常に政治的だった。私にとっては、本当の政治は政治体制や政党とは何の関係もないものだ。知っての通り、サルトルと彼の相棒たちは共産主義者社会主義者に味方した。だが私の政治はビート世代、あるいはヒッピーさえ、そして、ウッドストック世代、あるいは、バックミンスター・フラージョン・ケージのような芸術家の政治に近い。彼らは普通の意味での政治とは全く違ったやり方で社会を変えた。彼らは生活のスタイル、生き方や振舞い方のスタイルを変えたんだ。暴力なし、政党なしでね。言うなれば、彼らはこの国をどんな政治家よりも変えたんだ。さらに言えば、現在、科学や芸術やインターネットで起こっていること、つまり地球環境や太陽エネルギーに関する議論は、政党から生まれたものじゃない! だから、あれはゴダールに関する私の批評なんだ。


信仰をめぐる問答から。

何らかの意味であなたは神を信じますか?

思うに、私たちは肉体以上のものであり、無限であるが、自分たちが何者であるかをよくは知らない。私は本当に魂を信じているし、未知なるもの、それを神と呼ぶつもりはないが、を信じている。インドでもそれを神とは呼ばない。私はインドのスーフィーや日本のタオイストに同意する。キリスト教が力づくで定着する以前、リトアニア人は汎神論者だった。私はある意味で汎神論者だ。すなわち、私は私がすべての動物や木そしてあらゆるものと共に、自然の一部であると信じている。

*1:Walden − Diaries, Notes and Sketches(16mm, 180')は1969年に公表された。