ノスタルジア(Nostalgia)をめぐるやりとりに寄せて


Jonas Mekas' Diary, April 14, 2010


ジョナス・メカスの4月14日の日記には、昨年グリーネ・ナフタリ・ギャラリー(Greene Naftali Gallery)で開催された今は亡きポール・シャリツ(Paul Sharits, 1943–1993)の回顧展をジェラルド・オグラディ(Gerald O’Grady)と一緒に訪れた際の様子を撮影したビデオが投稿されている。‘Shutter Interface’(1975)と題したフィルム映写機四台によるインスタレーションをとても面白がっているメカスの気持ちがよく伝わってくるビデオである。特に多彩な光が泉のように湧き出てくる映写機のレンズに極端にズームアップするシーンが映画の起源あるいは映画を見ることの起源にはるかに思いを馳せているようで、非常に印象的である。そのインスタレーションに関してanetaさんから「デジタル・ビデオ・カメラを使う立場から、このようなフィルム映写機へのノスタルジアについてどう思うか?」というコメントが寄せられた。すると、メカスはその「ノスタルジア」という言葉の使い方に強く異を唱える主張を同日の新しい日記に投稿した。この「ノスタルジア」をめぐるやりとりが大変興味深った。以下にそれを翻訳がてら紹介し、私なりに敷衍してみたいと思う。

ギャラリー・ナフタリでのシャリツのシャッター・インターフェイスインスタレーションノスタルジアとは何の関係もない。それは全く、今ここの現実だった。その作品は、私の知る限り、かつてどこにも存在しなかった。だからこれは初演だったんだ。現在、今日のね。ノスタルジアは過去の記憶に関わるものだ。だが、この出来事は今ここで起こり、過去のものではなかった。ノスタルジアは今から20年後にやってくるだろう…、もし来るとすれば…

ところで私たちはゴヤの絵をノスタルジア故に見に行くわけではない。彼がキャンバスに描いたから見に行くのだ。つまり、彼の作品が永遠に今ここにあるからこそゴヤの絵を見に行くのだ。

Jonas Mekas' Diary, April 14, 2010


このように、メカスは芸術作品が具現しているのは歴史に還元されない、したがってノスタルジアとも無縁な、いわば<永遠の相>であり、それを見るという経験の本質もまた、<永遠の相>において見ることであると主張している。今ここにおいて失われているものは何もない、と。すべてが、しかも、新しいすべてが、今ここにある、と。


それに対して、二日後の16日にanetaさんからやや筋違いの応答が寄せられた。anetaさんはメカスの主張にほぼ同意したが、ただし、昨今の若いアーティストたちのインスタレーションによく見られる、映像を投影する道具であるプロジェクターという機械そのものを展示の一部にしてしまう手の込んだやり方に違和感を重ねて表明した。それは、現代絵画ではすでに見られないような、ルネッサンス期の、絵画を金の額縁に入れるような行為に似ている気がする、と。


しかし、映画の映写機を絵画の額縁と比較するのは無理がある。むしろ、メカスが示唆したように、映画の映写機は絵画のキャンバスのある働きに相当すると考えるべきだろう。フィルムを直視する場合はさておき、何らかの映写機がなければ普通の意味で映画を見ることはできないが、額縁はなくともキャンバスに描かれた絵を見ることはできる。その意味では、絵を動かすために発明された映写機をはじめとした環境全体が映画にとっての拡張されたキャンバスだと言えるだろう。


他のインスタレーションのことはよく知らないが、少なくともシャリツの試みや、メカスの同様の試み(Destruction Quartet, 2006 @ Armory Show 2010)は、映像を投影する無意識の機械に言わば意識を持たせて、それまでにない投影の方法を探る前衛的な試みであると言えるのではないだろうか。そこには単に機械としての映写機に対するフェティシズムノスタルジアは関係しないだろう。むしろ、映像を見るための機械の死と再生、さらには見るという経験の新しい地平の開拓が賭けられているとさえ言えるかもしれない。


ノスタルジアという主題に戻れば、メカスとて、すでに故人である作者にまつわる人間的な意味でのノスタルジアが全くないわけではないと思う。だが、メカスは現存する作品を見る、作品に接することは、あくまで今ここの経験であり、作品からは何も失われておらず、敢えて言うなら、作品は今ここでそれを見る者と共に、現在から未来に向けて開かれているのであって、そこにノスタルジアという過去に向かう視線を纏わせるのは筋違いである、そう考えてもいるようだ。「ノスタルジア」という言葉の用法をあなたは間違っている、正しく使う場面を取り違えている、と。


しかしながら、たとえ現存する作品に関する今ここの経験であっても、それをノスタルジアから完全に切り離すことは本当にできるのだろうか? それが私の疑問である。今ここの経験は過去の記憶から完全に切り離されては成り立たない。歴史を隅から隅まで見通すことはできない。関係の喪失を他の何かで埋め合わせることもできない。したがって、今ここでそれを見ることの内から、ノスタルジアを完全に排除することはできないのではないか。メカスはなぜそんなに「ノスタルジア」という言葉の使い方に強く異を唱えたのか。メカスのように割り切ることは何を示唆しているのか。むしろ、敢えてそうするのだ、というメカスの決意の所在と理由が気にかかるやりとりだった。


参照

 paulsharits.com