別れ。塚本さんを偲ぶ

私にとっては散歩とその延長のような旅やブログや本などで出会う人たちはこちら側のいわば仲間である。散歩は私にとって意識と生活を根底から変える革命であり続けている。だから、散歩でしか会わない人という言い方はしない。大げさに聞こえるかもしれないが、散歩で出会えることがすべてであり、散歩で出会えない人たちはあちら側に囚われているようにしか見えないこともある。「無為の共同体」を語ったのはブランショだったか? 学生の頃読んでさっぱり腑に落ちなかったが、今では本を読まなくても、表題だけで腑に落ちる。「何も共有しない者たちの共同体」を語ったのはリンギスだった。敢えて言うなら、死すべき運命だけを共有すると言えば言えるような共同体。そこまで降りた時にしか、本当は人間についても世界についても何も見たことにはならない。そういう地平。そんな地平でたわいのない言葉を交わしながら、運命を共有していることを言葉なしで感じ合う仲間がいる。そんな仲間の一人が亡くなった。一週間前だったと聞かされた。塚本さーん! 塚本さんらしいなあ。何も言わずに逝っちまったね。でも、悲しくはないよ。いつでもあの白樺の下に立てば、白樺の下にある切り株の椅子に腰掛ければ、あなたと話ができる。今朝、佐々木さんから聞いたよ。病院では眠っていたらしいけど、気がついていたよね。佐々木さんが来てくれたこと。佐々木さんと二人で白樺の下の切り株の椅子に腰掛けて何やらおしゃべりしている時だった。写真を撮らせてもらったこと覚えているでしょ。あの写真を届けた時に塚本さんは見るなり言ったよね。「これは遺影にいい」って。冗談じゃないと思う一方、突き抜けてるな、この人。こうでなくちゃ、と心底思ったよ。でも本当に冗談じゃなかったんだね。畑のトマトやナス、ダリアやユリやイワギキョウやコスモスやエゾノシモツケソウのことが気がかりだけど、なるようになるよね。「あんた、フリーかい?」と言われて苦笑したことを思い出すよ。写真を撮ることを「いい趣味だ」と何度か言ってくれたことも思い出すよ。そう言われて、趣味でいい、と思い切ったんだ。「趣味」という言葉の新鮮さと重さを初めて知った気がしたよ。故郷の長崎について複雑な表情で語ってくれたよね。言えないことが一杯あるんだなって感じたよ。最後に会ったのは1月30日、初めてヤマゲラを見た日、天気のいい日だったね。眩しい雪の中を奥さんと一緒にスキー用のストックを杖がわりについてゆっくりゆっくり歩いていた。「今日はあったかくていい」が最後に聞いた塚本さんの声だった。この世の新しい春を迎えることはできなかったけど、あっちは永遠の春みたいでしょ? これからも時々あの白樺の下から声かけるからさ。気が向いたら合図してよ。取り合えず、この世の掟にしたがって、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。


毎朝散歩をしながら、風物を越えて、次第に親しくなった人たちを撮影するようにもなった。撮影したことの重さを今痛感している。塚本さんのご冥福を心からお祈りする。そして、ご家族にお悔やみをお伝えしたい。


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