海女の「歌」


海女の群像―千葉・御宿(1931‐1964) 岩瀬禎之写真集





海女と海士 (日本民俗文化資料集成)


沖家室島の松本昭司さんが宮本常一の「解説」付きの中村由信写真集『海女』を手に入れたと知って、なぜか強く感応するものがあった。図書館で「海女」関連の書籍を漁り、岩瀬禎之の写真集『海女の群像』を見たり、偶然にも『海女』の宮本常一の解説「海人ものがたり」も収録された谷川健一責任編集の『日本民俗文化資料集成4 海女と海士』を拾い読みしながら、「海女」という「世界に類なき職業婦人」(額田年)の生活に思いを馳せ、女坑夫のことを連想していた。


かつて日本の各地では男達にまじって命懸けで地下に潜り比類なき精神世界を生きた女たちがいたことを森崎和江さんが伝えてくれた。同じように、日本の各地には命懸けで海に潜り比類なき精神世界を生きる女たちがいた/いることを直観したのだろう。彼女たちは海の中でどんな「神」に出会い、どんな「歌」を聴き、歌ったのだろう。そんな思いにとらわれた。


宮本常一は「海人ものがたり」の中で女の「海女」と男の「海士」の総称として「海人」を提案している。

 …女が潜るところでは、今は海女の字をかいてアマとよんでおり、男の潜るところでは、海士と書いてアマとよんでいる。両方ともアマである。男女両方が潜っているところではどのように書いたらよいのであろうか。そこで私は海人の字をあてている。これなら士と女の区別をしなくてもよい。

 宮本常一「海人ものがたり」より(『日本民俗文化資料集成4 海女と海士』15頁)


だが、アマはやっぱり海女だという思いは拭い去れない。海が「母」だからだろうか。


宮本常一が各地の「海人の村」として記録している中でも特に福岡の鐘崎(かねざき、かねがさき)と能登海士町(あままち)、舳倉島(へぐらじま)が印象深かった。瀬川清子「海女記(抄)」と小倉学「輪島海士町の遥拝所」の記述に惹かれた。

 日本海に面した、能登半島の北端に、輪島と云ふ町があります。有名な輪島塗の産地ですが、この町の一部に、海の中に潜って、鮑や寒天の材料になる海藻を採って暮らす一団の人々の住んで居る海士町があります。
 言い伝へによりますと、この人達は、今から四百年ばかり前に、九州の筑前の国から渡って来た十二人の人達の子孫だったと云ふ事で、氏神様等も、九州の筑前の浜辺に祀られて居る宗像神社と同じ女神様を祀って居り、どちらも、婦人のよく潜る村なので、互いに懐かしい気持ちで噂をし合ってゐると云ふ事であります。

 瀬川清子「海女記(抄)」より(『日本民俗文化資料集成4 海女と海士』47頁)

 日本海に突出する能登半島、その北部の輪島港に臨むのが海士町(あままち)である。伝承によれば、永禄十二年(1569)頃から筑前鐘崎の海士が季節的に能登にやってきて漁撈に従っていたが、慶安二年(1649)、加賀藩から現在地に土地を与えられて定住し、舳倉島(へぐらじま)を中心に漁業を営んできたといわれている。
 その海士町が“宝の島”とよぶのが舳倉島で、輪島から海上四九キロ、周囲七キロの孤島である。海女の潜水による採貝・採藻、男の魚を追う漁業が今でも活発に行われている。往時は八十八夜の頃に集団で渡島し、五カ月ほど島に居住して漁撈にはげみ、秋の彼岸すぎ輪島に帰り、十月下旬から年末にかけて能登一円の灘廻りに出て加工の海産物を米穀と交換するのであった。

 小倉学「輪島海士町の遥拝所」より(『日本民俗文化資料集成4 海女と海士』「編集のしおり」1頁)


「生命」あるいは「水」という大きなテーマの一環としての「海」、根をおろすべき空間としての「島」、そして「女」あるいは「母」というテーマが「海女」において繋がる気がした。


参照

海女の島―舳倉島

海女の島―舳倉島