海の記憶


   水上勉(1919–2004)


私は母の胎内でどんな時間を過ごしていたか知らない。私は自分が母からどうやって生まれて来たかも知らない。もし母が生きていれば、私を孕み生んだことを、妊婦としての体験、産婦としての出産あるいは分娩の体験を聞くことができたかもしれない。そんなことは敢えて知る必要はないのかもしれない。だが、無性に知りたくなることがある。せめてその時に母が見ていたこと、感じていたことに近づけないものかと思うことがある。特に私を産む瞬間に母は何を見、何を感じ、何を思ったか。そのとき世界はどう変ったのか。いや、そのとき世界はどう始まったのか。


記憶の彼方にありながらも、人生を根源的に方向づけるようなこの世の原光景、原記憶あるいは記憶の器のようなものがあるような気がしてならない。水上勉の「日本海の人と自然」を読みながら、ああ、やっぱりそれは「海」だったか、と腑に落ちるところがあった。海の記憶、、。しかもそれは母の胎内という海の記憶でもあった。私は母の体を通して海から生まれた。

 錫(すず)いろの布をたらしたような沖の彼方で、空と水が密着していた。どこが水平線なのかわからなくて、閉ざされた雲壁の果てに、朱の糸をひいたような夕方の沖があった。頭上の空は重い鉛いろだし、足もとの海もまた紫紺の色にしずみ、波はこまやかなちりめんじわをたて、色を次第に淡くして先へひろがっていた。それは天井のある虚空であった。
 どこもかもがそうだというのではないが、若狭の立石岬(たていしみさき)の村はずれにあった産小舎(うぶごや)の押あげ窓からみた光景である。産小舎は、村の産婦が子を産むときにそこを借りる。公共の建物のはずだが、ひどく粗末なもので、海へずり落ちてゆく薮(やぶ)に近く、人眼につかぬしめった場所にあった。小舎の中には、砂が敷かれ、梁から一本の綱が下がっていた。周囲はフシ穴のあいた板囲いで、屋根も破れて、何ともいえぬ荒廃ぶりだった。この小舎で、何百年というあいだ、村の子女たちが子を産み、その子らがまた大きくなって子を産み、あるいは社会人として他郷へ出ていったかと思うと、感慨はふかかった。私が見た日本海は、つまり、この産小舎で、ひとりの身重女が天井からたれた綱を、力綱にたのんで、孤独な分娩をいとなんだであろう瞬間の、眼にうつった海であった。
 いつごろから、子を産むことを「汚れ」と忌む風習が生じたかしらないが、産小舎のある村はどこも海に面していて、小舎は不思議にも海に背をむけていた。臨月がきて予定日をむかえた女は、母、姉、妹、叔母などのなかの「トギ女」*1につき添われ、寒い冬でもこの掘建小舎へ入った。そうして、そのトギ女が見ている前で、力綱につかまって、子を白砂の上へ産んだ。もっとも、砂の上には、ボロや、蒲団や、筵(むしろ)などが敷かれていたろうが、明治初期まで、産婦はみな別火(べっか)といわれて、不浄の身をこの小舎にうつして、約十五日間滞在し、産後四、五日を経過し、トギ女に手をひかれて家へ帰っていった。日本海辺にうまれた私にとって、日本海は、産小舎の窓からみた景色を原光景としている。海に抱かれてきた−−と思われるのもその故である。海辺に生きてきた人は、年じゅう黒い雲が沖を染めているのをみてもくやみはしない。それは、うまれた日の薄明の空に似ているからだろう。降雨を告げるうらにしの風がやんでも、立石の夜あけの空は暗かったのだと私は思う。

(中略)

 人びとの生まれた小舎が海の見える地にあるなら、葬られた墓が海の岸にあっても不思議ではなかった。旅人はよく、佐渡の外海府(そとかいふ)の北の賽(さい)の河原や、越前赤崎の断崖下の墓場や、与謝経ヶ岬の門人(たいざ)の浜の粗末な石の、塔婆とともに雨露にさらされているのをながめて、地の果てに埋められた人の寂寞を思う。しかし考えようによっては、物故者は生まれた元の海へ帰ったのである。耕地の少ない陽かげの村に生きた人間には、陽あたりよい土地は居心地がわるかろう。それが土地柄というものである。産声をあげた小舎が、薮かげの目立たぬ所にあって、海に背を向けていたなら、波の音をきかねば往生極楽の眠りはできまい。(水上勉日本海の人と自然」、『越の道』所収、9頁〜11頁)


かつて産婦たちが否応なく強いられた孤独な体験に可能な限り寄り添いながら、水上勉は人間にとって普遍的な世界の始まりと終わりの原光景を見据えようとしている。その眼差しは 日本神話の向こう側にさえ届いているように思われる。

*1:話の相手になって機嫌をとったり,退屈を慰めたりする女。