奈落のイメージ

辺見庸は「奈落」と題したエッセイ(『永遠の不服従のために』asin:4062750856と『言葉と死』asin:4620317993に収められている)の冒頭に次のようなガストン・バシュラール(Gaston Bachelard, 1884–1962)の言葉を引用している。

奈落は眼では見られない。奈落の暗さは恐怖の原因ではない。
視覚はこれらのイメージと何の関係もない。深淵は墜落から演繹される。
イメージは運動から演繹される。(ガストン・バシュラール『空と夢』宇佐見栄治訳、asin:4588000020


なるほど、「奈落」や「深淵」のイメージが「墜落」という運動から演繹されるとしても、そもそも「落ちる」あるいは「堕ちる」とはどこからどこへ向かうどんな運動なのか。




 僕のいた場所 (文春文庫)


藤原新也笠智衆(りゅう ちしゅう、1904–1993)の自宅をたずね、その能面のような底知れぬ顔に向き合いながら写真を撮った時の経緯を綴った「拈華微笑」と題した短いエッセイがある。その中に次のような興味深い「奈落」のイメージが記されている。

 わたしはファインダーを眺めつづける。
 不思議な顔だなあと思った。微細な色彩をはなつオパールの原石のように、あるいは能面のごとく、微妙に変化しながらそれはあるときホトケであり、ときに痴呆人であり、そして翁であり、またついに俳優であるという円環をめぐりにめぐる。
 しかし、ほんの一瞬のことである。彼の表情がその円環からふと逸れるのを見た。

 遠くの森でカケスの声が聞こえ、それが鳴り止んだとき、自分の名前を誰かから呼ばれたかのように老人は呆然と虚空を見上げたのである。
 そのとき一瞬、哀しみの奈落に落ちていくかのような目がファインダーに映り込む。
 私はその表情に見とれていた。なぜかシャッターを押すのを戸惑った。そして数瞬の躊躇ののち、指に力を込める。(藤原新也『僕のいた場所』)


ここでは、「虚空を見上げた」という運動から「哀しみの奈落に落ちていくかのような目」というイメージが引き出されている。一見、矛盾するように思われる。しかし、虚空を見上げるという動作は、天地をひっくり返してみれば、天に向かって落ちて行く運動であると考えられなくもないだろう。昇天と墜落あるいは堕落は見かけほど違わないのかもしれない。