善人面


ムラサキハナナ(紫花菜, Chinese violet cress, Orychophragmus violaceus)の長角果


散歩がてら花の写真なんか撮っていると悪人とは思われず、善人だと思われて、よく声をかけられる。多くの人は外から見える外見や行動によって見えない心を推し量り、たいてい見誤る。他人の心は必ず想像を越えるはずなのに。それに、なっちゃんがいみじくも書いてくれたように(→ 7月28日のコメント)、私がどんなにグロテスクな写真を撮っているか外からは分からない。ともあれ、私は善人面して生きていることは間違いない。沖浦和光によれば、私は「曲者」の一人である。

私もそうだが、誰もが〈善〉と〈悪〉の両界に生きているのだ。善人面(づら)した人間には、意外に曲者が多いのだ。…〈悪〉は人間の実存そのものに深く食い込んでいて、人類の発生史の始源から、ことのほか根源的なのだ。(沖浦和光『「悪所」の民俗誌』232頁、asin:416660497X


ところで、辺見庸が書いているように「善さげなものはとても手に負えない」。その鈍感な一種の暴力には閉口する。だが、その「善さげなもの」、「善さそうなふり」から私は本当に自由になれるのだろうか?

風景の上皮は二十年前と大して変らない。いまはただ万象の内実が狂っている。そして残忍なほどに暑い。運転手がまたしゃべりはじめた。「お客さん、どうですかね」と気をひいてから、後ろむきのまま唐突に問うた。「よさげなものがいま、いちばん悪いんじゃないですかね」。そう聞こえた。「善さげ」と私は漢字をあてた。だれが見たって悪どいものはみんなでやっつければよいけれども、善さげなものはとても手に負えない。世の中、善さげなものばかりだ。みんな善さそうなふりをする。運転手はそんなようなことをぶつぶついった。なんだかよくわからなかった。(辺見庸「クロアゲハ 炎熱の正弦曲線」、「室蘭民報」2010年8月7日(土曜日)朝刊)


もちろん、辺見庸は「なんだかよくわからかった」わけがない。