鏡の国の


室蘭民報(朝刊)2010年8月21日


室蘭の実家から戻った女房が、ほら、と言って折り畳まれた新聞の切り抜きをハンドバックから取り出して食卓の上に置いた。辺見庸からの〈返信〉が遠回りして届いた気がした。


それはきしくも私の誕生日の日付だった。千葉景子法相のことを辺見庸はどこかに書くはずだと思っていた。辺見庸は、千葉景子法相はそもそも「じぶんのなかの権力とどこまでもせめぎあう、しがない『私』だけの震える魂」を持たない人であり。じぶんを国家権力と同一化する最大の「自己倒錯」に陥ったと断じている。そうだとすれば、わざわざ絞首刑に立ち会った千葉景子法相は結局は見るべきものを何も見なかった、つまり「国家による殺人劇」の主役を演じる自分の姿しか見ていなかったことになる。「国家幻想」という「鏡のなかのじぶんにうっとりと見ほれているにちがいない」。ただし辺見庸は、それは千葉景子法相だけの話ではないことを示唆して文章を結んでいる。

 背信は彼女ひとりだけの例外的なものだろうか。どうもそうはおもえない。すさみとは、人がただ堕ち、すさみつくすことではない。自他のすさみについに気づかなくなること。熟れすぎたザクロのように、もろともに甘く饐(す)えたそれこそが、すさみの極みなのではないか。深夜、鏡のじぶんと凝然とむきあう。


「鏡のじぶんと凝然とむきあう」べき「私」、〈鏡〉の像にとらわれない「私」、どんな〈鏡〉にも映らない「私」こそが、「じぶんのなかの権力とどこまでもせめぎあう、しがない『私』」なのだろう。そんな「『私』だけの震える魂」を国家や組織や言語に売り渡してしまった人間は「すさむ」しかないのだろう。今夜、この私も鏡のじぶんと凝然と向き合ってどれだけ「すさ」んでいるかチェックしてみることにしよう。


どうして千葉法相はサインしたのかしらねえ? と女房はしみじみと言った。法務官僚にいいくるめられたんだろう。それにそもそも、これ読んでないの? 読んでないわ。辺見庸は「……」と書いてるよ。そうかしら? 違う気がするわ。辺見庸って人は、別の意味で鏡のなかのじぶんにうっとりと見ほれているんじゃないかしら。