襟裳岬

札幌から南へ距離にして二百数十キロ、車を飛ばして約四時間。太平洋に突き出した陸の孤島のような襟裳岬に行ってきた。あいにく、風もなく、霧にも包まれていなかった。我ながら驚いたのは、北海道に暮らしていながら、いままで襟裳岬に行ったことがなかったことだ。かつて森進一が「えりもの春は何もない春です」と歌った歌詞以上の知識もなかった。そして今から半世紀ちかく前に襟裳岬を訪れたひとりのフランス人よりも知らなかった。途中、サラブレッドや昆布で有名な日高町を通過した。写真一挙公開。













































1965年ニコラ・ブーヴィエは襟裳岬を訪れた。そのときの旅日記のなかに彼は「ここまで来て、そして今日になってやっと私は北海道に何を求めてやってきたのかわかった」と書いた。その答えは「空白」あるいは「無」であった。それはさておき、ブーヴィエが当時一日一便の決まった停留所がない路線バスに乗って襟裳岬に入って行くときの描写がとても印象的だった。襟裳岬を包む空気は、そこを訪れる人の運命を占う「水晶玉」のようだったと彼は語った。

 バスは砂地の道を通って襟裳岬に向かって下っていったが、たちまち繭のような霧に包まれ、エンジンの音は今にもかき消えそうな蝋燭の炎のようだった。乗客は十人あまり、みな睡魔と闘い、ときおり隣の人の頭が肩にもたれかかってくる。ここの夏はつねに風が岬に吹き寄せ、ところどころ切れ間のある催眠性の白く分厚い霧の層を運び寄せたり、遠ざけたりしている。霧は猛烈なスピードで広がっては分裂し、その裂け目から鮮烈な緑の草原が滝のように無言で海になだれ落ちて行くのが見える。そしてたちまちもとの白さに包まれる。そしてまたあの緑が顔を出し、そのなかで紫の切っ先、野生の菖蒲(アイリス)だ、が揺れ、風に痛めつけられた花びらが茎の上で震えているのが見える。沿岸の岩場では、杭に縛りつけられた黒い布が気ぜわしくはためき、漂流物か潮流か人魚か、あるいは私の知らない何かの動物の所在を示している。
 人影もなく、草原と光と砕け散る波だけからなる貧しく頑固なこの風景は、ただひたすら同じことを繰り返している。まるで夢のなかにいるようでもあり、天分に恵まれた語部の吟ずる物語のなかにいるようでもある。そして、宙に舞う海水をたっぷり含み、ときおり烏のまぎれこむ風に大きくえぐられるこの霧に太陽の光が差し込むとき、この陰気で異様な土地がそっくり占いの水晶玉のなかに収まっているかのように見え、吸いこまれそうな歪みがいたるところに感じられる。バスの運転手はこの鏡の宮殿を毎日通り過ぎながら、よくも酩酊状態にも度しがたい憂鬱にも落ちこまず、クラッチの切り替えや停留所に降ろす荷物のことを忘れないものだと想った。(ニコラ・ブーヴィエ「襟裳岬」、『ブーヴィエの世界』145頁〜146頁)


ブーヴィエの世界

ブーヴィエの世界


大陸育ちのブーヴィエは「これ以上どこにも行き場のないような海」が好きだと語ったこともあるが、海を見て育った私なんかはそこから何かが始まるといつも感じていた。私はブーヴィエとは逆に襟裳岬の将来を占いたくなった。