チョ・ジヒョン写真集『猪飼野 追憶の1960年代』




チョ・ジヒョン写真集 猪飼野―追憶の1960年代

チョ・ジヒョン写真集 猪飼野―追憶の1960年代


チョ・ジヒョン(曺智鉉)さんは1938年済州島北部の新村里(シンチョンリ)生まれのフリーカメラマン。1948年8月、10歳の時に、叔母に連れられて父が単身出稼ぎに来て戦前から暮らして居た猪飼野に来たという。

 日本の植民地時代、1922年に就航した定期連絡船「君が代丸」が奴隷船よろしく運んできた労働者と女工、海女たちを合わせると、一体何万人の済州島人が猪飼野界隈に来たであろうか。ぼくも、その中の小さな一人であった。(177頁)


チョ・ジヒョンさんは多感な少年期と複雑な心情の青春期の10年間を猪飼野で暮らした。貧しく乏しい生活の中で、屈辱的な差別も体験した。そして己の基本的な人格はその10年の猪飼野の生活で否応なく育まれたと言い切り、複雑な気持ちを籠めて猪飼野を「育ての故郷」と呼ぶ。

 ぼくが27歳の時から、あしかけ5年にわたって、猪飼野の写真を撮影し続けた動機と活力は、ごく自然な気持ちである日から始められたが、それは猪飼野で味わった多感な少年期の悲哀と、思春期に何度か体験した差別の記憶の、癒しがたい心の疼きと屈辱感であった。
 二つに引き裂かれた記憶をたぐりながら、在日は何故なのか、自分は一体何者なのか、を問いつつさ迷う青春のうぶな思索と写真の彷徨には、常に言い知れぬ寂寥感が付きまとっていた。済州島猪飼野での記憶は、ぼくの写真表現の原点であり、モチーフとテーマでもある。写真に写っている少年たちはぼくの分身であり、オモニたちは瞼の母の幻影であった。(177頁)


チョ・ジヒョンさんが猪飼野の写真を撮り続けた5年間とは、1965年から1970年にかけてである。当時は南北の対立がより一層激化し、一般庶民の日常生活の中にまで浸透し、路地を歩いていても、殺伐とした空気が漂っていたという。

 路地の風景を撮影していると、いきなり水をぶっかけられたり、撮影済みのフィルムをよこせとつめよる男も現われた。どこかの組織のスパイと誤解された。
 そこで、一ヶ月間程はカメラを持って写真を撮らずに、路地から路地をつぶさに歩き回って出会うすべての人に挨拶した。済州島方言で挨拶すると、ぼくの故郷を聞く人も出てきて、立ち話をする人も出来た。(178頁)


そうして撮られた写真は、どれも言葉にならない声がいっぱい詰ったような胸を打つ写真ばかりである。本写真集は「第1章平野川」「第2章朝鮮市場」「第3章路地うら」「第4章子どもたち」の全4章から構成されているが、「第4章のこどもたち」の写真に強く引き込まれた。特に冒頭に「引用」させていただいた写真は私を一気に40年以上前に連れ戻した。昭和30年代以前に生まれた人ならピンと来るだろう。紙芝居を見る子どもたちである。アレン・セイの絵本も思い出す。巻末の「写真説明」には、こう書かれている。

お菓子を買えない子どもたちは後ろの方で見ていた。(186頁)


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尚、チョ・ジヒョンさんは1974年から6年かけて全国の部落を取材旅行し、本写真集に先だって、1995年に写真集『部落』(筑摩書房asin:4480856919)を出版した。その後、「古代朝鮮渡来人と文化の足跡」という大きな主題の一環として「天日矛(あめひぼこ)と渡来人の足跡」という主題を追究するために、2002年まで10年かけて九州から関東まで調査撮影旅行したという。その「天日矛(あめひぼこ)」に関してチョ・ジヒョンさんは次のように書いている。

天日矛は日本に渡来した新羅王子の名前である。猪飼野の入口にあたる東成区に鎮座する「比売許曾(ひめこそ)神社」の祭る神は天日矛の妻アカル姫である。このような新羅系神社だけでも全国に約150社残っている。この点と点を結ぶ線が渡来人の来た道である。関東にも、山梨県、神奈川県、群馬県にある。(183頁)


なるほど。大変興味深い。その成果である写真集を見てみたいが、まだ公刊されていないようだ。