越境する民の記録:上方落語「代書」に聞こえる済州島方言

上方落語に「代書」あるいは「代書屋」と呼ばれる演目がある。昭和10年代、 大阪市東成区今里の自宅で副業として今日の行政書士のルーツである代書人を営んでいた四代目桂米團治が、その実体験に基づいて創作した新作落語で、1939年4月初演された。そのなかに、済州島出身の男が駆け込んできて、大阪に紡績女工として働きに来る予定の故郷の妹のために「渡航証明」を取るのに必要な書類の代書を片言の日本語で依頼する場面がある。杉原達『越境する民』によれば、なんと最後には依頼主のセリフに済州島の方言が音写されているという。




越境する民―近代大阪の朝鮮人史研究

 「ハイ、チョド物をタッねますカ、アナダ、トッコンションメンするテすか」
 「変ったんが来るな今日は。トッコン、ショメンて何や」
 「解らんテすか。ワダシ郷里(くに)に妹さん一人あるテす。その妹さんコント内地きてボーセキてチョコーするです。その時警察(ケサツ)テ判貰わぬと船乗れぬテス。タカラ警察へ判貰う願書(ネカイ)タステス」
 「アア渡航証明かい」(引用は、『上方はなし』第四六集、一九四〇 [昭和十五年] 年五月、から)

(中略)

 この依頼主の妹さんが、紡績女工として実際に大阪へ働きに来たかどうかは、確かめるすべもない。だが当時、済州島若い女性が、続々と大阪へ渡って来たのは事実であった。彼女たちは、この話のように兄を頼ったり、親類縁者や友人をめざして、あるいは「トリシマ」(取締り)と呼ばれる朝鮮人男性に引き連れられて、大阪各地の紡績工場および寄宿舎へと向かった。「女は紡績、男は職工」という言い方は、とくに済州島出身者の場合、鮮やかに当てはまった。1934(昭和9)年の時点で、済州島出身の在日朝鮮人女性2万人余り(ちなみに男性は3万人弱であった)の職業をみると、紡績工は約5400人で断然トップを占めていた。それに続くゴム工が約1800人、ミシン裁縫工が約1200人であったことを思えば、その圧倒的な位置がわかるであろう。
 代書屋に語る兄の話によれば、彼らの故郷は「翰林面上摹里」である(上摹里は大静面に属するがここでは問わない)。翰林面も、またその南に位置する大静面も、済州島の西部に位置しており、当時の調査によれば、日本への渡航者が多く、とりわけ紡績女工の出身地として名高い地域であった。この妹さんが大阪をめざしたとすれば、その道筋は、翰林または摹瑟浦から島を西回りにぐるっとほぼ一周して済州・城内に至り、そこから荒波で有名な玄界灘を越えて下関に着き、そして瀬戸内海を大阪に向かったにちがいない。「警察(ケサツ)テ判貰わぬと船乗れぬテス」と兄さんは言ったが、彼女が乗った船は、「君が代丸」というまことに象徴的な名前を持った千トンにも満たない連絡船であったにちがいない。

(中略)

 ともあれ、主客のやりとりがひとしきり続いた後の結論はこうであった。


 「土台戸籍が無茶苦茶や。先に戸籍を整理せん事にはどんな願書出したかて許可にならへん」
 「そテすか。そんならパン事、よろしく頼むテす」
 「宜しや、鳥渡手間取るが待ってや。まず死亡届。死亡届失期理由書。出生届。同じく失期理由書……アア漸う出来た。しかし是れ科料(バッキン)取られるで」


 目当ての「渡航証明」を取るには、その前に多くの面倒な書類を書いてもらわなければならず、また罰金も科せられそうだということがわかって男は仰天する。


 「パッキン要るテすか。何んぽ要るテす」
 「そら解らん。裁判所から書き附けが来るのや。五十銭以上十円以下……」
 「チュウ円ッ。チュウ円ッ。そらいかんテす。ワタシもう止めるテす」


 十円といえば、済州島から大阪までの船賃にほぼ匹敵する大金である。事態が容易ならざることをいやというほど知らされたこの男は、最後に、


 「チニーヤ、タルキマニ」
 「シルバシヤカンリ。内地コトバ解ラン解ラン。テレカンリョウロ。ヒレパレヒレパレ。左様なら。……」


 と言って店を飛び出していくのである。
 この最後の表現は、済州島の方言である。済州島出身の方にお聞きしたところ、表記が音韻をふまえていないので、正確な訳は困難なのだが、おおよそ意味するところ、「何たることだ。代理で書いたんだから、支払いは待ってくれよ」というあたりか、と教えていただいた。(15頁)


YouTubeに上がっている「代書」のビデオの中では米朝による四代目米團治三十三回忌追善の「代書」で、その場面を聞くことができる。五分割されたビデオの内、04の末尾から05の前半までが当該場面である。




 杉原達は、「米団治が、耳に響いた済州島方言を民衆娯楽たる落語の言葉として写し取っていた点」を重視し、そのことの意味を次のように掘り下げて論じている。

「中濱代書事務所」(米団治の本名は中濱賢三であった)が開かれていた今里は、大阪のなかでも、屈指の朝鮮人、とりわけ済州島出身者の集住地域であった。近くに朝鮮人が住んでいることは、付き合いが深いということを意味するわけでは決してない。視野に入っているはずなのに見えていないという関係が成り立つことは、大いにあり得る。あるいはまた日常的な出会いがあるからこそ摩擦や矛盾も多く、日本人側が侮辱と排除の感覚を研ぎ澄ます場合の方が多いとも言わねばなるまい。
 米団治が、朝鮮人に対する当時の社会意識のなかで生きていたことは、紛れもない事実である。一般に存在した差別的なまなざしから、まったく自由であり得たはずはない。日本語の発音の困難をあえて強調して「朝鮮人らしさ」を際立たせるという類型化された人物づくりにも、その一端はうかがえるだろう。あるいはまたこの話には、戸主が虎に食われて亡くなったというくだりが出てくる。そこには、朝鮮出兵時の加藤清正の「虎退治」の伝説も一枚かんでいるだろう。この設定には明らかに文明とは縁遠い存在というステレオタイプ化された朝鮮人像が前提されており、それを文明の「大大阪」と対比することによって笑いをとるという手法には根深い問題が存在している。というのも、いうなれば優越意識の共同体が、噺家と聴衆とが一体となった場において成立し共有されるからである。(16頁〜17頁)

(中略)

 一席を聞き終えると、「この客、ムチャを言いよる難儀なやっちゃ」と苦笑する代書屋の姿がありありと目に浮かんでくるようだ。とはいえおやじの嘆息は、駆け込んできた済州島の客を否定し去る性質のものではあるまい。このことは言説の全体を総合的に視野におさめるならば、一段と明確になってくる。先にも記したように、「代書」のなかのこの部分は、客が日本語とは異なる表現をふりまきながら退散する形で終わるのであるが、そこでは不完全ながらも済州島の言葉が使われているのである。一般的にいって、異世界から来た他者の表現を誰もが写し取れるわけでは決してない。くらしのなかで接する機会がある場合でも、他者に対する共感と反発の両義的な方向が常に併存している。やはりこの場合でも、生活の場における具体的な位置のとり方、関係のもち方が、こうした叙述を可能とするかどうかの分け目となっているのであり、職業上の体験と生活上の実感とに支えられた米団治の個性、そこから滲み出る他者への豊かなまなざしに規定されての済州島方言での表現だったとみることができよう。
 くらしのなかの排外意識の問題性は、常に具体的なできごとに即して現れるものである。排除と同化強要がセットとなって、異なる文化的背景をもつ人びとに対する圧力として作用し、ステレオタイプ化された朝鮮人像が、広く社会的にまた地域のなかで蓄積され、そして諸個人の意識を規定してきた歴史と現実が確実に存在している。この意味では、米団治も、そしてまた私たち自身も例外ではあり得ない。だがその場その場のせめぎあいのなかで、オールタナティブな方向はあり得るのであり、だからこそ他者に対する誠実な理解へと道を開いていくような可能性が、掘り起こされ継承されるべきだろう。米団治の生活史に疎い者として軽々しいことは言えないのだが、朝鮮民族の言葉を、このような形で自身の仕事の中にさりげなく書き留めていたことに感じるところは多い。(18頁〜19頁)


なるほど、たしかに、差別と被差別の複雑に交錯する関係を生きる場において、その場その場の他者に対する共感と反発の両義的な方向のせめぎあいのなかで、差別意識を無化することはできないにしても、それを無闇に助長しない「オールタナティブな方向」はあり得るだろう。自身被差別の根深い歴史を背負った芸能民として米団治は、残酷でもある<笑い>の渦とカオスの中に、その方向性をしっかりと掴んでいたといえるかもしれない。「他者への豊かなまなざし」とか「他者に対する誠実な理解」とは、消毒されたような潔癖な関係ではありえないだろう。