日本の「狂気の歴史」と今


治療の場所と精神医療史

治療の場所と精神医療史


本書は、中央政府帝国大学の専門家が推進した西欧近代の視点からの精神医療のいわば大文字の歴史から外れた今まで語られることの極めて少なかった民間治療の小文字の歴史、言わば殺されかけた記憶を蘇生させようとする研究成果の一部である。「近代日本精神医療史研究会」の代表である橋本明氏は他のメンバーと共に、地域に根差した民間治療の歴史を丹念に掘り起こし、「そこにしかない場所」としての「治療の場所」が「どこにでもある空間」としての精神病院という治療の空間に変質してきた歴史を問いただし、「社会的弱者にとってますます生きづらくなることが懸念される社会への処方箋」を示そうとする、が、、。

 精神医療の歴史は、患者の「治療の場所」をめぐる歴史である、といっても過言ではなかろう。患者をどこで治療するのか、という問題は昔から大きな関心事のひとつであった。家族や地域社会から、一時的にせよ長期的にせよ、なんらかのかたちで移送や隔離を必要とするという精神病患者の処遇の性質からか、特定の場所や空間が精神病治療と結びつく場合が多い。また、いったん精神病治療と結びつけられた場所や空間は、精神病の同義語として人々に語り継がれていくこともある。たとえば、ベルギーのゲール(Geel)は古くから精神病者の巡礼地として知られていたが、「ゲールに行く」「ゲールから来る」という慣用句は、「頭がおかしい(gek)」ことを意味するオランダ(フラマン)語として今日でも辞書に載っている。また日本国内では、「冗談などで、何か突飛な話をすると、東京では『松沢行き』、京都では『岩倉行きだ』といいます」というエピソードを知る人々も少なくないだろう。
 しかし、「治療の場所」というとき、大きく分けて次元の違う2つの空間を指している。ひとつは、部屋・施設・病院・治療にかかわる建築物やモニュメントといったミクロな空間のことであり、もうひとつは、このミクロな空間を含みつつ、それらが立地する周辺の一定の広がりをもつ自然・社会環境全体を含み込んだマクロな空間である。(3頁〜4頁)


寡聞にして、ベルギーのゲールについても、東京の「松沢」と京都の「岩倉」についても知らなかった。本書で詳述されている東京の「松沢」は松沢病院という「ミクロな空間」としての特定の精神病院を指し、京都の「岩倉」は京都洛北・岩倉の地に集積していた精神病者預かりを行なう宿屋・保養所郡と、大雲寺やその冷泉などの個々の施設が点在するこの地区の環境全体という「マクロな空間」を意味している。ベルギーのゲールに関しては、ウェブ上にも橋本明氏による公開講座の資料が公開されている。


本書では他に、宮城県定義(じょうぎ)の湯治場(第2章)、群馬県の室田と瀧澤の滝場(第3章)、千葉県の寺院の参籠(第4章)、静岡県竜爪山穂積神社(第5章)、富山県大岩日石寺(第6章)、戦前の大阪府生駒山地菖蒲が滝地域の星田妙見道場(第7章)、徳島県阿波井神社の保養院(第8章)における民間治療の独自の文脈が「そこにしかない場所」あるいは「マクロな空間」の諸例として浮き彫りにされている。


橋本明氏は本書の「あとがき」で、そもそも精神病から「治る」あるいは「回復する」とは何なのか、という問いに再三立ち戻り、治療万能主義に異議を唱えつつ、次のように述べる。

・・・各地の「治療の場所」でわれわれが見出したのは、治療万能主義に傾いた精神病学の世界に欠如していた、患者をトータルに支えるという発想である。「治療の場所」では、治療手段(たとえば滝打ち、温泉に浸かること)が直接的にかつ多面的に支える環境(たとえば参籠所、旅館など、加えてそれにかかわる人的資源、豊かな山や海といった自然環境)がどれだけ準備され維持されるかが、精神病から「治る」ことにかかわっている。また、「治療の場所」では、精神病から「治る」ことは、単に精神機能の回復でも、医学的な完全治癒でもなく、とても広く柔軟に捉えられている。多くは家族に伴われて行く患者が、「治療の場所」で結ぶ人間関係や、豊かな自然環境のなかで暮らすこと自体が、すでに「治る」ことの一部をなしていたといえよう。そして、患者(と家族)は治療行為に主体的にかかわり、一定の療養期間を経て、「治った」ことを周囲と確認しあうことで「治療の場所」から元の生活の場所に戻って行ったのである。
 このような「治療の場所」のあり方について、「どこかで聞いたこと」と思われるかもしれない。精神医療の施設化と脱施設化や、障害者政策の大きな転換を経験した今日のわれわれは、実に豊かな語彙をもっている。ノーマライゼーション、あたりまえの生活、障害者自立支援とった概念と、かつての「治療の場所」における患者の支えられ方との類似性を考えずにはいられない。結局、歴史は繰り返されるもので、同じ事柄を別の言葉で置き換えているだけなのだろうか。しかし、そう感じることができるとすれば、むしろしめたものである。各地の「治療の場所」の歴史を記述することが、ただ単に失われたものへのオマージュではなく、いまに直接つながる重要なメッセージを発する力があることを示しているからだ。(250頁)


なるほど。しかし、本書を読んでも、「社会的弱者にとってますます生きづらくなることが懸念される社会への処方箋」や「いまに直接つながる重要なメッセージ」の具体的中身は見えてこない。不満である。誰がどこで何をどうしたらいいの? 



技法以前―べてるの家のつくりかた (シリーズ ケアをひらく)

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その点で、橋本明氏が、例えばとっくに治療万能主義から脱却した北海道浦河町べてるの家の実践をどう評価するのか聞いてみたい。


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