静止画としての写真が集まり、その連なりに生まれる「流れ」が「歌」となって聞こえる。いや、じつは一枚の写真でさえ複雑な流れを内包し、複雑な歌を記録しているに違いない。ただ、あまりに複雑すぎてそれを再生して聞き取る耳を私は持たないだけのように思う。一枚の写真に感じ取られる複雑な流れは真の孤独あるいは混沌と言っていいほどだが、ふつう人生はそんな孤独あるいは混沌に耐えられない。誰かと共有しうる明瞭な流れを際立たせる必要がある。ただ、それは登った後に外す梯子みたいな仮の足場でしかなく、人生や旅はそんな梯子に過ぎないのかもしれないと思う。「ふるさとの遠い日 the coal mine; so far away」「夏の真ん中 mid-summer」「流れる旅の役者 traveling actors」「夜に after hours」の四つの「歌」として編まれた鈴木清の写真集『流れの歌 soul and soul』は、一見分かりやすい流れ(人生、旅)の歌の底に聞いてはいけない「魂と魂」の間の無限の隔たりに流れる歌があることを教えているようだ。聞くしかない。