途中、ところどころの村の入口に立札があった。
−−物乞い旅芸人は入るべからず。
「旅芸人のいた風景」(沖浦和光)の記録として川端康成の「伊豆の踊子」を読み直したのがきっかけとなって、「抒情歌」「禽獣」などの作品に寄り道した。もう少し寄り道したくなって、「十六歳の日記」と「孤児の感情」を読んだ。幼くして天涯孤独の身となった川端康成の作家としての生涯は、差別を生むケガレ意識をはじめ多くの固定観念(彼はそれを「概念」と呼ぶ)と戦いながら、「孤児」としての自覚を深めてゆく過程、孤児としての「感情」を自ら教育する過程であったように感じた。「孤児の感情」における記憶と忘却をめぐる一種の思考実験(彼はそれを「空想」と呼ぶ)は興味深い。
日記はこれでおしまいだ。この日記を書いてから十年後、島木の伯父の倉で私が見つけた日記はこれだけだ。中學校の作文用紙に三十枚ほど書いてある。多分これだけしか書かなかったのだらう。この後は書いてゐられなかったのだらう。なぜなら、祖父は五月二十四日の夜死んだのだから。そして、この日記の最後の日は五月十六日だ。祖父の死の八日前だ。十六日以後は祖父の病気が一層悪くなつたり、家の中が混雑したりしたので、日記どころではなかつたのだらう。
ところが私がこの日記を發見した時に、最も不思議に感じたのは、ここに書かれた日々のやうな生活を、私が微塵も記憶してゐないといふことだった。私が記憶してゐないとすると、これらの日々は何処へ行つたのだ。どこへ消えたのだ。私は人間が過去の中へ失つて行くものに就いて考へた。(中略)
私は祖父が死んだ年の八月家を捨てて、伯父の家に引き取られた。家に對する祖父の愛着を思ふと、その時もその後家屋敷を賣る時も少しはつらかつた。しかしその後、親戚や學寮や下宿を轉々してゐるうちに、家とか家庭とかの観念はだんだん私の頭から追ひ拂はれ、放浪の夢ばかり見る。祖父が親戚に見せるのも不安に思つて、最も信頼してゐたおみよの家に預けた、私の家の系圖も、今日までおみよの家の佛壇の抽出しの中に鍵をかけたままで、見たいと思つたこともない。しかし私は祖父に對して別段やましいとは思はない。何故なら私はおぼろげながら死者の叡智と慈悲を信じてゐたから。
「十六歳の日記」、「あとがき」より
「十六歳の日記」は大正十四年、二十七歳の時に發表したが、大正三年、十六歳の五月の日記で、私が發表した作品のうちでは最も古い執筆であるから、この全集でも卷首に置いた。(「十六歳」とは數へ年で、滿では十四歳である。)
(中略)
「十六歳の日記」の「あとがき」に、「私がこの日記を發見した時に、最も不思議に感じたのは、ここに書かれた日々のやうな生活を、私が微塵も記憶してゐないといふことだった。私が記憶してゐないとすると、これらの日々は何処へ行つたのだ。どこへ消えたのだ。私は人間が過去の中へ失つて行くものに就いて考へた。」と書いてゐるが、この過去に経験したが記憶してゐないという不思議は、五十歳の現在も私には不思議で、私にとつてはこれが「十六歳の日記」の第一の問題である。
記憶してゐないからと言つて、過去のなかへ「消えた」とも「失つた」とも簡単には考へられない。またこの作品は記憶や忘却の意味を解かうとしたものではない。時と生との意味に觸れようとしたものでもない。しかし、その一つの手がかりとなり、一つの證しとなることは、私には確かである。
記憶の悪い私は記憶といふものを固くは信じない。忘却を恩寵と感じる時もある。
「十六歳の日記」、「あとがきの二」より
父母−−父母といふ言葉が久し振りで私の頭に浮かんで來た。妹といふ言葉の聯想としてである。
私の妹に就て知ってゐることを何もかも心に描き出してみるとしたところで、私の思ひ出は二分間で種切れになりはする。しかし、妹は現に生きてゐる。これは何よりも強いことである。また、妹がこの世にゐる證據には、今日もこんな手紙をよこしてゐる。ところが、私は父からも母からも葉書一枚貰った記憶はない。もつとも、死んだ人間が私に手紙をよこしたりすれば、不可思議な出來事であるが−−。
けれども私は、千代子といふこの女から、世界中のどの人間ともちがつた感じを受ける。この感じは何か。妹である。千代子はなぜ私の妹か。私と父母が同じだからである。だから妹は、時々彼女の聯想として父母を私の頭に持って來るのである。
父母が死んだ夏から、四歳の私と一歳の妹とは、別々の家に引取られて大きくなつた。幼い頃の私は父母が死んだことも忘れてゐたし、妹が生きてゐることも忘れてゐた。自分の目で見たことのない人間が、この世に生きてゐたとも、この世に生きてゐるとも、考へようとはしなかつたのである。(中略)
今夜も私は妹をさきに寢かせて原稿を書いてゐる。私は毎月それを賣つて學資としなければならなゐのである。
髪の豊かな色の白い女とでなければ、私は断じて結婚しない。−−こんなことを私はしきりに考へてゐる。妹が髪の豊かな色の白い女だからである。あちらを向いた妹の寢顔を見て考へてゐる。
「こいつは馬鹿だ。反省と懐疑といふことを知らない馬鹿だ。」
男と床を並べて、よく平氣で眠れたもんだ。妹といふ概念に安心してゐるのだ。兄妹ではあつても、一つの家に寢るなぞは生まれて今度が初めてであるし、私が妹に就て知つてゐることを何もかも心に描き出してみるとしたところで二分間で種切れになるくらゐなのだ。兄妹であるからといふ氣持も、私達の場合には、人間の感情の因習を概念的に信じることに過ぎないのだ。同じ父母から生まれたといふのか。でも私は父や母を見た覺えもない。千代子が私の妹であるとは思へても、私の父母の娘であるとは思へない。とにかく千代子は、私の妹であるといふ記憶のやうなものを、彼女の頭の中に持ってゐる。そしてその持ってゐるものに反省と懐疑との眼を向けてみないのだ。しかし、若しそれを忘れてしまつたら−−。
私は一つの夜を思ひ出す−−大正十二年地震の時、焔は東京の半ばを舐めて、まだ燒けない私達の町に嘲笑ひながら近づき、私が逃込んだ森の夜を明るくしてゐた。私は立木の枝に蚊帳を釣り地面に夜具を敷いた。私がその家に下宿してゐた會社員の妻が、蚊に攻められて泣く赤ん坊のことばかりを頭一ぱいにして、私にろくろく挨拶もなしに、私の寢床に入つて來た。彼女は一日間の混亂で少し常識を失つて、無考えになつてゐるのだらう。しかし、彼女も自分の蒲團を敷けばいいではないか。蒲團を持つて逃げる氣は彼女にないし、この小さい森も火に食はれることを知つてゐる。それだのに彼女は、蒲團を地面に敷いた記憶はないといふこと、つまり、蒲團は地面に敷くものではないといふ概念に捉へられて、自分の蒲團が地面に敷けないのである。そしてまた、他人の若い妻が私と一枚の夜具の上に寢てゐるのに、周圍に一ぱいの人々は少しも怪しまないのである。なぜか。彼等は私と彼女とが何者であるかを知らない。私達に就ての記憶を持つてゐない。そして、私と彼女と赤ん坊とが夫婦とその子なのだらうと思つてゐるからである。私と彼女とが夫婦でないといふ記憶を、彼等が持つてゐないからである。それならば若し−−と、私はその時空想したのであつた。彼女も傍の人々と同じやうに、私と彼女とは夫婦ではないといふ記憶を失つたとしたら。會社員の妻であるといふ記憶も失つたとしたら。そして、世の中の人間が悉く記憶力と名づけられた頭の働きを失つたとしたら。夫は昨日のわが妻を忘れ、妻は昨日のわが夫を忘れ、親は昨日のわが子を忘れ、子は昨日のわが親を忘れたとしたら。その時は、人間は悉くみなし児となり、ここは「家庭のない都市」となるだろう。−−誰も彼もが私と同じ身の上になるだらう。
この空想を今夜私は思ひ出して、新しい一句を附け加へる。
「そして、私は妹と結婚するだろう。」
「孤児の感情」より