見すぼらしくて美しいもの

佐野眞一は『日本のゴミ』(asin:4480033297)の「エピローグ」で梶井基次郎の小説『檸檬』(1925)の一節をどの版か不明だが新字旧仮名で引用している。

 何故だか其頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えてゐる。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしても他所他所(よそよそ)しい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくた[「がらくた」に傍点]が転してあつたりむさくるしい部屋が覗いてゐたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕(むしば)んでやがて土に帰ってしまう、と云つたような趣きのある街で、土塀が崩れてゐたり――勢ひのいいのは植物だけで、時とすると吃驚(びっくり)させるような向日葵(ひまわり)があつたりカンナが咲いてゐたりする。
 時どき私はそんな路を歩きながら、不図(ふと)、其処(そこ)が京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのやうな市へ今自分が来てゐるのだ――といふ錯覚を起こさうと努める。

同じ箇所を深い意味はないが旧字旧仮名で引用してみる。

 何故だか其頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覺《おぼ》えてゐる。風景にしても壞《くづ》れかかつた街だとか、その街にしても他所他所《よそよそ》しい表通よりもどこか親《した》しみのある、汚い洗濯物が干してあつたりがらくた[#「がらくた」に傍点]が轉してあつたりむさくるしい部屋が覗いてゐたりする裏通が好きであつた。雨や風が蝕《むしば》んでやがて土に歸つてしまふ。と云つたやうな趣《おもむ》きのある街で、土塀が崩《くづ》れてゐたり家竝が傾きかかつてゐたり――勢ひのいいのは植物だけで時とすると吃驚《びつくり》させるやうな向日葵《ひまはり》があつたりカンナが咲いてゐたりする。
 時どき私はそんな路を歩きながら、不圖《ふと》、其處が京都ではなくて京都から何百里も離れた仙臺とか長崎とか――そのやうな市《まち》へ今自分が來てゐるのだ――といふ錯覺を起さうと努める。

 「青空文庫」

やはり「粗大ゴミ」扱いされてきたとも言える複雑な旧字が混在するこちらの姿のほうが「見すぼらしくて美しいもの」の表現にふさわしいと感じる。

それはさておき、佐野眞一梶井基次郎の繊細すぎる神経をそよがせたそんな風景はいまや絶無であると語り、こう続ける。

風景と人間の交感関係は遮断され、汚いもの、むさくるしいものはゴミと総称されて、風景のなかからきれいさっぱり取り除かれた。いまわれわれのまわりには、時間の堆積によって朽ちることもないかわりに、視線の入り込めない陶磁器のように冷たく清潔な風景だけが広がっている。(379頁)

しかしそもそも人間にとっての風景とは、程度の差こそあれ、そういうものでしかなかったのかもしれない。つまりゴミ的なるものを見て見ないふりをすることができる範囲内にしか成り立たないのが風景という概念なのかもしれない。というのは、ちょっと視野を広げれば、あるいは地中に埋まっているものに気づけば、それまで愛でていた楽園のような風景すら地獄に反転することもあるからだ。とはいえ、すでに一昔前からゴミの復讐は始まっているし、ゴミと共存していかなければならない以上、いわゆる迷惑施設も含めてすべてのゴミ的なるものを視野にいれた「時間の堆積によって朽ちる」ことを引き受けた「見すぼらしくて美しい」風景を再構築しようとするしかないのだろう。