九九の話から

塵劫記 (岩波文庫)

塵劫記 (岩波文庫)

山内数学教室の山内先生から、先日私が『塵劫記』に言寄せてちょっと触れた九九の諳(そら)んじ方について、『塵劫記』の内容に即して補足する大変興味深い知らせが届きました。

岩波「塵劫記
(底本 寛永二十年版)の「第六 九九の数」(pp.22-23)
の注釈(二)(校注:大矢真一)に以下のように書かれています。

現在「二二が四」というような呼び方に「が」を入れているのは、
積が一けたの九九である。多くの九九は十の位からソロバンの
玉を動かす。「が」が入ると、十の玉を動かさない。すなわち「が」は、
計算上必要だったのである。『塵劫記』の時代は、この習慣がまだ
固定されていなかったように思われる。
寛永四年版は一の段があり、且つ「一一の一」から「三八の二十四」
まで「の」を入れる。
寛永八年版は二の段からはじまり「二二四」のようにすべて「の」の
ないことは本版と同じ。
本版をもとにした寛文九年版には「二二ノ四」「二三ノ六」「二四ノ八」
「二五ノ十」「二六ノ十二」「二七ノ十四」とこれだけの九九に「ノ」が
入れてある。この時代は理論ではなく、口調だけで「ノ」を入れたらしい。

口調を整えるあたり、なんとなく、わらべ歌のような九九を感じさせます。
計算などを身につけさせ、人並みの幸せを願う親達とそれに無邪気に
従う子供達の姿を連想して、ほほえましくも感じるのですが。

最後に添えられた山内先生の感想にハッとして、人間の記憶と記録にまつわる色んなことを次から次へと連想していました。特に、「口調を整える」、「わらべ歌」というところで、オーストラリアのアボリジニの「ソングライン」の話を思い出しました。ソングラインとは、土地土地を祝福するような記憶を託した歌がつながって大地を深く巡り広く柔らかくカバーするようなアボリジニにとっては非常にリアルな「道」、つまりは世界観のことです。でも大地を無闇に境界づけてきた僕らはソングラインを見失った。そんな話です。アボリジニに限らない話として、おそらく「歌」というのは、感情に深く作用するので、人類に普遍的な記憶のフォーマットであると言えるのかもしれません。


参考: