現実と言語:清岡卓行『マロニエの花が言った』から


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 話は変わるが、金子夫妻がバタヴィアに上陸したちょうど五十三年前の一八七六年七月に、フランスのある詩人がやはりオランダの船でバタヴィアに上陸している。二十一歳のアルチュール・ランボーである。
 ランボーはその二か月前の五月にヨーロッパでオランダの外人部隊に入り、六月にジャワに向かう船に乗ったのであった。ただし、彼はバタヴィアから任地に赴くと、翌八月に早くも脱走し、スマランで砂糖貨物船にうまく乗せてもらい、危うくフランスに戻っている。したがって、バタヴィアを通ったのは一回だけである。
 光晴の方はスラバヤから戻るとき、またバタヴィアを通ってシンガポールに渡ることになる。
 この年(一九二九年)から二十二年後の一九五一年に、五十五歳の光晴は翻訳の『ランボオ詩集』をだすことになるが、三十三歳でバタヴィアやスマランに着いたとき、かつてランボーがこれらの同じ土地を踏んだとはたぶん夢にも思わなかったろう。
 十九世紀のフランスにおいて、「風の足の裏を持つ男」といわれた世界放浪型の詩人と、二十世紀の日本において、東京とパリのあいだを足かけ五年にわたる放浪に近い往復をした詩人が、半世紀あまりの年月を隔てながらも、どちらの本国からも遥かに遠い熱帯のジャワ島のバタヴィアやスマランで足跡を交錯させていることには、いってみれば詩作品に求めることのできない、現実そのもののふしぎに詩的な感動があろう。(下巻389頁〜390頁)


いうまでもなく、「現実」は幾重もの時間の層をなして、<現在>の中に折り畳まれている。


私にとっては、アルチュール・ランボー金子光晴の足跡の交錯に、「世界放浪型」の音楽家であり画家でもあったヴァルター・シュピースの足跡が重なる。シュピースは光晴がバタヴィアに上陸した六年まえの一九二三年八月にオランダの汽船ハンブルグ号でヨーロッパを後にし、十月にジャワ島に到着し、バタヴィア経由でバンドゥン、ジョグジャカルタへ移動し、その後一九二七年にバリ島に移るまでクラトンの宮廷楽長を務めるなど音楽的な活動の傍ら、スラバヤで展覧会に五枚の風景画を出展もしている。それを思うと「現実そのもののふしぎに詩的な感動」はさらに増幅される。


ところで、清岡卓行は詩作品を「現実そのもの」から区別される「言語そのもの」の美しさの証明にほからないと断じたこともある(『イブへの頌』まえがき、asin:B000J96IYO)。


しかしながら、「言語そのもの」とはなんであろうか。


かつてアントナン・アルトーが、人はある条件の下では「言語以前の状態」に墜ち、自らの「言語」を選択できる位相に入り、その選ばれた「言語」は、ある時には音楽、絵画、舞踏、言葉になると記した(『演劇とその分身』、asin:4560046042)ことを思い出す。

(続く)


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