ノラの声


最後にノラを見たのは11月13日の日曜日だった。夕方買い物から戻ると玄関の前で丸くなっていた。「ノラ」と声をかけてみた。すると顔を上げてこちらをじっと見ながら静かに立ち上がって身構えた。もう一度声をかけて近づこうとした瞬間に走り出して家の陰に姿を消した。追いかけるのはやめた。


ジャン・グルニエJean Grenier, 1898–1971)が『孤島』の中で猫の話を書いていたのを思い出して、久しぶりに読んだ。グルニエは猫のムールーの声を通して、とても意味深長なことを書いていることに改めて気づいた。

 きみは何もいわない。だが私はきみの声をきくように思う。
「ぼくはあの花だ、あの空だ、あの椅子だ。ぼくはあの廃墟だった、あの風、あの暑気だった。さまざまに仮装しているぼくを、きみはそれとすぐにはわからないのか? きみはぼくを猫だと思っている、それはきみがきみを人間だと思っているからだ。」

 『孤島』(井上究一郎訳、筑摩書房、1991年、asin:4480013504)18頁


ちなみに、原文はこうである。

Tu ne dis rien, mais je crois t'entendre: " Je suis cette fleur, ce ciel et cette chaise. J'étais ces ruines, ce vent, cette chaleur. Ne me reconnais-tu pas sous mes déguisements ? Tu me crois un chat parce que tu te crois un homme."


この一節にノラの声を聞くように思った。ノラは何も言わない。でもノラがこう言っているのが聞こえるような気がしてならない。「あんたはおれのことを猫だと思い込んでいる。自分のことを人間だと思い込んでいるからさ」


(追記、11月29日)
井上究一郎の翻訳文を意図的になぞった結びの一文を上のように加筆訂正しました。そうした理由と経緯について以下に書いておきます。


実は、井上究一郎の日本語訳を打ち込みながら、例えば「私はきみの声をきくように思う」や「きみがきみを人間だと思っている」のような不自然な訳し方に違和感を覚えていました。自然な日本語の表現が可能であるにもかかわらず、それを犠牲にして、敢えて片言のような日本語に翻訳する理由が少なくともこの場合にはまったく理解できませんでした。これは翻訳の困難、さらには不可能性を問題にする以前の、また詩的表現を問題にするはるか以前の、当たり前の日本語の話です。私は井上究一郎の翻訳文を頭の中で例えば「お前が〜と言うのが聞こえる気がする」や「自分のことを人間だと思い込んでいる」という自然な日本語に置き換えて読む作業を強いられました。それでも、グルニエが伝えようとしたことは理解できたと思ったので、翻訳そのものを批判することはせずに、大人しく原文を引用するに止めました。ただし違和感は銘記しておこうと思い、「ノラの声が聞こえるような気がした」という自然な表現ではなく、「ノラの声を聞くように思った」と井上究一郎の翻訳文をなぞった片言の表現でエントリーを結んだのです。


すると、そんな生温いやり方では、明らかな誤訳を放置し、間違った日本語を広めることに無闇に手を貸すことになりかねませんよ、と忠告するメールが言語学者の小島剛一さんから届いたのです。小島剛一さんは、私が引用した井上究一郎の翻訳文に見られる明らかな誤訳、日本語として不自然な表現、そして日本語として意味をなさない表現に関して四点にわたって指摘しています。

一つ。猫に向かって日常的に「きみ」と呼びかける大人の日本人は、多いのですか。私は一度も会ったことが無いのでお聞きします。
二つ。フランス語の「entendre」は、この文脈では、「聴く、聞く」ではなく「聞こえる」に相当します。原文の「je crois t’entendre: « .... »」は、「お前が『・・・』と言っているのが聞こえるような気がしてならない」と訳すべきものです。「きみの声をきくように思う」は、誤訳である上に、日本語として意味を成しません。「きみの声」をいつどこで誰がどんな意図で「きく」と言いたいのでしょうか。「きく」は、「聞いている」とも「聞こえる」とも違うことを意味する形態です。
三つ。「ノラの声を聞くように思った」は、この翻訳文をなぞったのでしょうね。日本語として「ノラの話しかける声が聞こえるような気がした」のほうが自然だとは思いませんか。
四つ。「きみがきみを人間だと思っているからだ」という逐語訳に違和感を覚えませんか。私なら「自分のことを人間だと思い込んでいるからだよ」と訳します。


この四つの指摘は、井上究一郎の翻訳文に対する私の違和感の原因を説明してくれる明快なものでした。そのなかでも特に重大だと感じたのは、「〜をきくように思う」は誤訳である上に、日本語として不自然であるどころか、そもそも日本語として意味を成さない、と批判する二つ目の指摘です。私は「〜をきくように思う」に違和感を覚えつつも、それを頭の中で「〜が聞こえるような気がする」のような日本語として自然な表現に置き換えて理解していたにもかかわらず、「〜をきくように思う」を日本語として適切な表現として認めていると見なされても仕方のない書き方をしてしまいました。なかなか気づかれにくい面があるとは言え、不本意な傾向に無闇に手を貸していたことに気づかされたわけです。そういうわけで、上のように加筆訂正しました。