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瞬間は極短い時間ではなく、時間という秩序から逸脱した途方もない深みのようなものであることに気づいたのは「いつ」だったか。当て所ない「時間の廃墟」の中を行くような散歩の最中だったか。それもまた「瞬間の経験」だったような気がする。
昭和33(1958)年の夏に、広島でエマニュエル・リヴァ(Emmanuelle Riva, b.1927)が撮影した写真に目を奪われていた。特に基町の太田川のほとりにできた密集集落、いわゆる「原爆スラム」の中を漂流するように歩き廻って撮影したらしい写真から伝わって来る独特の距離感に。あのマルグリット・デュラス脚本、アラン・レネ監督の映画『Hiroshima mon amour(ヒロシマ・モナムール)』(1959年公開。日本公開時の題名は『二十四時間の情事』)の主演女優が広島滞在中に撮った写真であるとは俄には信じられなかった。
リヴァの写真からは、ある一線を今まさに越えようとする瞬間、まるで三途の川を渡る瞬間にでも生まれるような、不思議な距離感が伝わって来る。普通は固定的に捉えられがちな撮影者と被写体との間の物理的な距離を底なしの混沌に突き落としてしまうような、全く異質な距離の感覚である。ふと耳が聴こえなかった井上孝治の写真から伝わって来る距離感を思い出していた。耳が聴こえない、その分だけ、すっと相手に近づき、いつの間にか、その懐に入り込んだ瞬間に生まれる不思議な距離感。日本語を全く解さなかったエマニュエル・リヴァは、日本では耳が聴こえないも同然だったから、同じような距離感が生まれたのだと考えることもできそうだ。しかし、意味は分からなくとも、音声としての日本語は聞こえていて、彼女はそれに耳を澄ましていたはずだ。
写真を撮ってから五十年後のあるインタビューの中で、五十年前の日本での体験を回顧しながら、エマニュエル・リヴァが次のように語っていることに興味を覚えた。
食べ物でもなんでも、すべてが違っていました。日本語も、特にその声の官能性。すべてが私の知らなかったもので、それがとても気に入ってしまったんです。あらゆるものが目新しくて、異なっていて、私はその差異に身を任せていました。それは素敵なことで、というのも何か別の存在、そう、私が別のものになって、もうそれまでの私ではなく、自分でもあまり理由がわからないけれど、私なのに、その中に新しい私がいて、私から離れて勝手に前へと行ってしまうような……。つまり、船に乗せられて、どう言えばいいのかしら、向こう岸に渡るにふさわしい条件はすべてそろっていたとでも言いますか。生のもう一方の岸辺、でしょうね。結局、それが俳優の仕事なのだと思います。
関口涼子訳「ヒロシマ、もうひとつの私の岸辺」(エマニュエル・リヴァ インタビュー。聞き手はドミニク・ノゲーズ、マリー=クリスティーヌ・ドゥ・ナヴァセル、港千尋。『HIROSHIMA 1958』所収。90頁)
やはりそうだった。彼女は普通の意味では距離の取りようがない、従ってそれについて語ることも非常に困難な、「死の瞬間」にも匹敵するような「新しい私」の誕生の瞬間に立ち会っていたのだった。