わたしの舞踏の命―吉増剛造による大野先生への献詩 細江英公による大野先生への献写真
本書には、「天地創造の初めから死者の恩恵を受けている」と「天地創造の業–––一家団欒」と題した、大野一雄による、矢立丈夫氏を聞き手とした形式ばらない二つの談話(1992年、大野一雄宅)が収められている。スケールの非常に大きな大野一雄の舞踏の言わば宇宙論的な背景が平易な言葉で語られている。その中に幼い頃、若い頃の食事や料理を回想する件がある。「料理人になりたいという気持ちはいまだにあるんですよ」とも語る当時85歳の大野一雄は、忘れられない味について具体的に語っている。その語りが、舞踏の雛形のような身振り手振りをも彷彿とさせ、大変興味深い。大野一雄の「舞踏の命」は「忘れられない味の命」に直結していたようだ。
先ずは、塩ジャケ、シャケの鮨、ニシン漬け、イカの塩辛の味。
自分が小さいときの朝餉夕餉、そんな中で生涯忘れられないことがあるんです。少し大袈裟なんですが、寒い朝なんか前の日に炊いたご飯なんか凍みてしまう。その凍みたご飯を大きな鉄の鍋でお茶漬けにして戴くんです。おかずは塩辛い、猫も食べないという猫またぎという塩ジャケ。塩がなずんで発酵して塩が塩の形をなさない、変貌して幽霊のような、塩の命みたいなものですね。そんな塩ジャケの味。そして、きんぴらごぼう、ゴマ油でこう炒めて醤油を入れることもあるんだけど、塩で炒めて。
北海道の函館で、網元だったものだから多くの漁師さんがいて、毎年カムチャッカ、オコック、ロシア領のカバフトあたりまで出かけていって、ニシンを穫ったり、シャケを穫ったり。シャケは当時は何百万匹を一シーズンに穫っておった。シャケなんか本当なら珍しくなく飽き飽きしているはずなのに、毎日美味しく食べていて忘れられない味として残っています。タクワンのお漬け物やニシン漬け、シャケの鮨、そんな樽が蔵には幾つもありました。私の祖父は蔵造、父は藤造といいましたね。そのシャケは生のシャケではだめなんです。塩ジャケでね、塩出ししてうすぎりにしますが、大きな重石で身のしまった塩ジャケ。もち米を蒸して、樽に人参、大根、かぶなどそういったものと塩出しした塩ジャケや麹を重ねながらシャケの鮨はつくるんです。それからニシン漁もやっていましたから、ニシン漬けっていうのもあるんです。みがきニシンを、やっぱり大根やかぶ、それからキャベツそういったものをさくさくと切って入れて混ぜ合わせ、荒塩をさっとふりながら、無造作に重ね漬けていくんですね。そうして最後に大きな重石をして押しておくんです。これも美味しい漬け物でしたね。鉈漬という大根を荒っぽく無造作にきざんだ糠漬。またね、イカの油や墨を入れてつくったイカの塩辛が台所の縁の下にあったのを覚えています。いろんな人の出入りがありましたので様々な保存できる食べ物を沢山つくっていたのかもしれません。いずれも忘れられない味として残っています。(62頁〜63頁)
そして『五島軒』で食べたコキールの味、後に出征する際に母親が作ってくれたコキールの味。
函館には西洋料理の店で明治の初めに二十間坂を上がった左側にフランス料理の本格的レストランである『五島軒』という店があって舌の焼けるようなコキールの味は忘れられません。名前は忘れましたが、ほかに二〜三ヶ所あってそれぞれの店には四種類も五種類もの自家製ソースがあって、小さな瓶に入っていて、そのソースの味がいまでも残っているんです。それも私が幼稚園か小学校の頃の話ですがね。ソースの味が私の想いのなかに八十年も残っているのですから、食べた料理だって相当なものだったに違いない。そんな店で食事したりして母親がそんな西洋料理をきっと食べながら料理の業を身につけたというか、作り方ばかりでなく味の命までも覚えたんじゃないでしょうか。(中略)三十幾つのときに、日中戦争があって徴兵制度のために招集されたんですね。そのときに母親がコキールを作ってくれたんですね。チーズ、バター、じゃがいも、お肉、メリケン粉、牛乳などで作るんですが、それをテンピで焼くわけですよ。このテンピで焼いたものが何とも言えないとろけるような味なんですね。こういう味をもう一度味わいたいなぁ、と思って世界中を旅行するのですが母が作ってくれたあの美味なる味わいをまだ体験していません。私は最高の味を味わえたとね。子どもたちに対する愛情がこの味の原点になっていたのではないかと考えているんです。(64頁〜66頁)
ちなみに、コキールとはcoquille(コキーユ)の英語読みで、ホタテガイの殻、あるいは貝殻形の皿に、ホワイトソースであえた魚介類などを盛って天火で焼いた料理のことだが、函館の『五島軒』では今でも定番料理のひとつである。