とろろ昆布


「信用」という意味の英語の credit や goodwill に相当する「暖簾(のれん)」という言葉への興味から、山崎豊子のデビュー作『暖簾』(1957年)を読んでいたら、祖父母と一緒に暮らしていた頃よく食べた、昔懐かしい、とろろ昆布を食べたくなって、仕事帰りにコンビニに寄ったついでに迷わず買ったのがこれ。原料の昆布は北海道産、使用した酢は米酢、としか表示がないのが寂しい。


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小説では、北海道渡島(おしま)産の甘みに富んだ幅広の分厚い真昆布(まこんぶ)を「原草昆布」として仕入れ、『三勘(みつかん)』の酢で漬け前した、云々、とある。しかも、さすが大阪市の老舗昆布商店、小倉屋山本の家に生まれただけあって、山崎豊子の昆布に関する観察は細かく、記述は詳細で、非常に面白い。例えば、主人公の吾吉が昆布の加工を見習うことになった場面では、こんな記述がある。

 海から採って乾燥したままの原草昆布を酢につけ、酢を吸い上げて柔らかくなった頃合をみて、しわを延ばしてくるくるゲートルを巻くように巻いて一晩置くのを『巻き前(まえ)』といい、昆布を削る前の大切な『下ごしらえ』だった。これを一年間。『下ごしらえ』した昆布を『荒削り』するのが一年間。薄い紙断ち包丁に鋸(のこぎり)のように二百、目を入れた包丁で昆布の黒い表皮をかいて『黒とろろ』をとるのが三年。芯の方の白い部分を削って『白とろろ』をとるのが二年。かみそりのように包丁をうすく研ぎすまして、カンナ屑のようにかいて『おぼろ昆布』を作るのが四年。一人前の昆布の加工を習い覚えるには十一年かかる。
 人によって削った昆布のあし(丈)が短いのや、長いのができる。おぼろ昆布の上品(じょうもん)は、あしが長く、幅が平たく薄手なもの、あしが短く幅狭の分厚いものは並品(なみもん)とされた。とろろ昆布の上品はあしが短く、綿花のように細かく削られて、舌の上にのせるととろりと、とろろ芋のような感触を持った。並品は、あしが長く舌ざわりが荒かった。下手な者が削ると、包丁は意地悪く板昆布の上をすべって、あしの長いとろろ昆布が出来上がり、売物にならない。最初の酢の漬け具合でも味が落ちた。刀鍛冶(かじ)の火入れ具合と同様に、酢の漬け方一つで、光沢のある味の利いたものが出来たり、出来なかったりする。失敗すると、阿呆(あほ)ォ! と、包丁の峰で頭を叩かれた。(『暖簾』新潮文庫、21頁)

「白とろろ」と「黒とろろ」の区別、「とろろ」と「おぼろ」の区別を初めて知った。一介の丁稚から叩き上げ、親子二代にわたって、「暖簾」に全力をかける不屈の気骨と大阪商人の姿を描いたとされる本書の主要なテーマも、このような商人にとっては命ともいうべき商品そのものをめぐる具体的記述の積み重ねによって、よりリアリティと迫力を増している。

蛇足ながら、「暖簾」の辞書的な定義は『大辞林』によればこうである。

〔「のんれん」の転じた「のうれん」の変化した語。「のん」は「暖」の唐音。もと禅家で,寒さよけにかけた垂れ布をいった〕
(1)商店で,屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。また,部屋の入り口や仕切りにたらす短い布をもいう。
(2)店の信用。店の格式。「―にかかわる」「―を守る」「―を誇る老舗(シニセ)」
(3)〔法〕 営業活動から生まれる,得意先関係・仕入れ先関係・営業の秘訣・信用・名声など,無形の経済的財産。グッドウィル
(4)「暖簾名(ナ)」の略。

ふと、ブログにおける「暖簾」ということを思った。