地球岬:Cape Globe, endless color of our planet

chikep, -i チけプ きり立ったがけ。
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室蘭市母恋南町の丘陵外海に面する断崖は、そこに燈台があり、地球岬と云っているが、その原名はChikepであった。
知里真志保著『地名アイヌ語小辞典』(北海道出版企画センター、17頁〜18頁)

9月19日、自分が生まれ育った室蘭の町を中山さんを案内しながら、私は完全に一人の旅行者になっていた。初めて見るものばかりという印象が強かった。

何度も訪れた地球岬に設置されたこんな英語の掲示板を生まれて初めてちゃんと見た。へー。

展望台からの燈台の眺め。

独り展望台から外海を眺める中山さん。これを撮影した直後私に気づいて中山さんは手を振ってくれた。

中山さんが見ていたであろう外海。

室蘭市の旧市街にある名物の天丼で有名な天勝の前で。閑散としたアーケードの照明が、まるで中山さんの突撃訪問を祝福して舞う室蘭(モ・ルエラニ「小さな坂道の下りたところ」)の精霊のように写っていた。

マロニエか栃の木か

札幌、曇り。寒い。東の空には晴れ間も見えるが、西の空からは雨雲が近づいてくる。大気が非常に不安定だ。散歩の後半雨が落ちてきた。

藻岩山。

久しぶりに金網越しに原生林内の枯れたオオウバユリ(大姥百合, Cardiocrinum cordatum var.glehnii.)の群生に目が行く。果実が黒ずんでいた。この直立する茎たちは真冬の雪の中でも見ることができる。

一昨日(9月27日)記録した7つの小葉の落ち葉の主はこの街路樹だった。原生林に面したその通りの他の街路樹はすべてナナカマドであるが、なぜかこれだけ違う。小葉の特徴からマロニエMarronnier)という名で知られるセイヨウトチノキ(西洋栃の木, horse chestnut, Aesculus hippocastanum) だと思った。小葉の先端に「丸み」があるのはマロニエの大きな特徴らしい。

しかし、下の方の小葉の先端は尖っている。これは日本産のトチノキ(栃の木, Japanese horse chestnut, Aesculus turbinata)だろうか。

教室には魔物が棲む

講義はライブである。90分間のライブ。準備は少なくとも一年前から始まっている。本の執筆で言えば、目次の構成と序文に相当すると言えるかもしれない、いわゆるシラバス(講義概要)はほぼ一年前に完成している。本の各章の内容に相当するのが毎回の講義ノートおよび資料等である。それらも随分前に完成している。しかし、そこまでの作業は、「講義」の何分の一でしかない。実際に教室で数百人の学生と相対する時間の中で何を起こせるか、起こせないか、それが講義の命である。でなければ、講義ノートと資料を配って読ませるだけでいい。あるいは、講義ノートをカメラに向かって読み上げる音声付きビデオを好きなときに見てもらうだけでいい。そういうことで「済む」なら、教室の講義は必要ない。さらに、極論するなら、例えば、書籍やウェブで得られるような知識を授受しあうためだけに長時間教室に閉じこもる必要は本当はない。

教室には魔物が棲む。講義はその魔物との格闘である。勝つことも負けることもある。私は魔物との格闘に備える準備に時間をかける。講義の前日、当日は、魔物攻略計画に没頭し、そのエッセンスは教室でだけ配布される「シナリオ」に結実する。ギリギリ間に合うことが多い。そんな時間はいわば舞台稽古、あるいは「リハーサル」と言えるのかもしれない。そこまでやって実際に教室での魔物との格闘に臨んでも、負けるときは負ける。勝ち負けは私にしか分からない徴候であり、手応えではあるが。もちろん、負けから学ぶことも多い。それは私にとって非常に大切な経験になる。しかし、勝たなければ、すくなくとも引き分けに持ち込まなければ、学生たちを魔物の手に渡すことになりかねない恐れがある。

変な話かもしれないが、そんな「独り相撲」みたいなことを私は性懲りもなく教室で学生たちを相手にしていると言える側面が確かにあるのだった。

魔物に勝った感触を得た講義の後には、私自身は教室と一体化した空っぽの器のようになり、そこには透明な時間が流れる。昨日の「言語哲学入門」第2回の講義終了後はそうだった。

講義終了後、「思索記録」をつける学生たちの様子。すでに大半の学生は退席した後。

記録し終わった者から順に提出して教室から出て行く。

講義の最中から書き始める者や、一通り聴き終わってから書き始める者までいろいろ。

「思索記録」は、講義の要約から、感想、意見、批判、異論等々まで多種多様な内容で、とても面白い。しかも皆かなり気合いを入れて書く。

質問に立ち寄る学生も多い。「任侠」に関する質問、「動物を飼う」ことに関する質問などがあって、面白かった。

この一連の写真撮影は学生たちの許可を得ている。

How to cope with a pile of mail:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、9月29日、272日目。


Day 272: Jonas Mekas
Saturday, September 29th, 2007
4:14 min.

about Godard,
too much mail, and
what I learned
from Goethe ---

ゴダール(1930-)について、
大量の手紙、そして
ゲーテ(1749-1832)から
学んだこと…

アンソロジーのオフィスで旧友たちとテーブルを囲み雑談するメカス。ゴダールの話題から、メカスはゴダールとの因縁、そして大量の手紙やファックスなどの処置に困っていることを打ち明ける。その部屋の隅に山となってある手紙を指差しながら、どうしたもんかとメカスは言う。目を通している時間がない、と。「ゴダールには秘書がいるかもしれないが、私には秘書なんていない。どう思う。ゴダールを責めることはできない。」

「ギョエテ、ゲーテ、ドイツの詩人、ファウストを書いた、あのゲーテからいいことを学んだんだ。たぶん1799年か1801年、200年前にこう言ったんだ。当時彼は大量の新聞を読むのに毎日多くの時間を費やすのに嫌気がさして、だって、90パーセントは屑みたいなもんだろう。それで結局、全部積み重ねておいて、一ヶ月に一度だけ読むようにしたとさ。私もそうすることにしたんだ。せいぜい一月に一度目を通すことにね。99パーセントは屑だから。」

***

  • ゴダールに関してメカスが書いた文章(邦訳)の抜粋:

「メカスのゴダール論」

  • フライによるメカスへのインタビュー記事:

“Me, I Just Film My Life”: An Interview with Jonas Mekas, by Brian L. Frye
これは日付が見当たらないが、ブルックリンのグリーンポイントのメカスの自宅でのインタビューであるから、最近のものである。その中で、政治的立場に関するゴダールとの違いについてメカスは次のように語っている。

I’m not a political sort of person ? certainly not in the way politics are understood today. My idea of politics is very different. The ‘politicians’ I like are John Cage, Buckminster Fuller and maybe George Maciunas and those of the Beat Generation, those who changed humanity in a more subtle way. They change the style of life and everything is positive; nothing is negative. All those who support the political systems and movements and politicians end up very negative and the results are negative. Gandhi was maybe one who was a chance for the positive. But the main political movements end up in horror, as we well know. That’s why I am critical of Godard. He sided himself with the wrong political movements, the wrong politicians. And that’s why I keep inserting in my films, especially in As I Was Moving Ahead, that it is a political film. I consider that what I am proposing, what I am showing, is a different way, a different option, and that is beauty and being positive.

メカスの「政治」理解は一風変わっている。彼が好きな「政治家」はビート世代のアーティストたち、ケージやフラーやマチューナスで、つまり人間性(humanity)をある捉え難い方法で変えた人物たちである。世界から否定的な要素を排し、すべてが肯定的になるように自ら生き方(the style of life)を変革する者こそが本当の「政治家」であるというわけだ。それに対して現行の政治システムや政治運動や政治家たちは最後には否定的な結果に終わる。ガンジーはおそらく肯定的な世界へのチャンスだったのかもしれなかったが、政治的な主流は周知のように恐怖に終わった。それがメカスがゴダールに批判的な理由である。ゴダールは間違った政治的運動、間違った政治家の側に立ったとメカスは見る。メカス自身は、だから自作映画の中では、特に政治的映画であることを自認する自作As I Was Moving Aheadにおいても、ゴダールとは違ったやり方で、つまり美しく肯定的な選択肢を挿入し続けるのだという。