教室には魔物が棲む

講義はライブである。90分間のライブ。準備は少なくとも一年前から始まっている。本の執筆で言えば、目次の構成と序文に相当すると言えるかもしれない、いわゆるシラバス(講義概要)はほぼ一年前に完成している。本の各章の内容に相当するのが毎回の講義ノートおよび資料等である。それらも随分前に完成している。しかし、そこまでの作業は、「講義」の何分の一でしかない。実際に教室で数百人の学生と相対する時間の中で何を起こせるか、起こせないか、それが講義の命である。でなければ、講義ノートと資料を配って読ませるだけでいい。あるいは、講義ノートをカメラに向かって読み上げる音声付きビデオを好きなときに見てもらうだけでいい。そういうことで「済む」なら、教室の講義は必要ない。さらに、極論するなら、例えば、書籍やウェブで得られるような知識を授受しあうためだけに長時間教室に閉じこもる必要は本当はない。

教室には魔物が棲む。講義はその魔物との格闘である。勝つことも負けることもある。私は魔物との格闘に備える準備に時間をかける。講義の前日、当日は、魔物攻略計画に没頭し、そのエッセンスは教室でだけ配布される「シナリオ」に結実する。ギリギリ間に合うことが多い。そんな時間はいわば舞台稽古、あるいは「リハーサル」と言えるのかもしれない。そこまでやって実際に教室での魔物との格闘に臨んでも、負けるときは負ける。勝ち負けは私にしか分からない徴候であり、手応えではあるが。もちろん、負けから学ぶことも多い。それは私にとって非常に大切な経験になる。しかし、勝たなければ、すくなくとも引き分けに持ち込まなければ、学生たちを魔物の手に渡すことになりかねない恐れがある。

変な話かもしれないが、そんな「独り相撲」みたいなことを私は性懲りもなく教室で学生たちを相手にしていると言える側面が確かにあるのだった。

魔物に勝った感触を得た講義の後には、私自身は教室と一体化した空っぽの器のようになり、そこには透明な時間が流れる。昨日の「言語哲学入門」第2回の講義終了後はそうだった。

講義終了後、「思索記録」をつける学生たちの様子。すでに大半の学生は退席した後。

記録し終わった者から順に提出して教室から出て行く。

講義の最中から書き始める者や、一通り聴き終わってから書き始める者までいろいろ。

「思索記録」は、講義の要約から、感想、意見、批判、異論等々まで多種多様な内容で、とても面白い。しかも皆かなり気合いを入れて書く。

質問に立ち寄る学生も多い。「任侠」に関する質問、「動物を飼う」ことに関する質問などがあって、面白かった。

この一連の写真撮影は学生たちの許可を得ている。