昨日は近年極めて稀な鬱な気分の日だった。低気圧のせいだったのかもしれないし、風太郎が回復して緊張の糸が切れたせいだったのかもしれない。よく分からない。とにかく深ーく沈んでいた。今日は晴天だったからか、上昇気分だった。鬱っぽくなったときには、タンゴを聴く。映画『ブエノスアイレス』を思い出す。昔、こんなコラムを書いたことがあった。

「世紀末にブエノスアイレスの娼家で性的興奮を高めるものとして歌われ始め、二十世紀に入って急速に都市化されてゆくその街で大流行し、やがて全世界へ広まってゆくこの場末のメロディーは生を歩むある逸脱した方法のメタファーであり、慢性的な崩壊現象から身をそらす儀式的な身ぶりなのである。タンゴで肉体をよじることにより何かとんでもないものが体の中へ入ってきて、この音に内在するむせかえるような官能と暴力によって連鎖的な生の頽廃から身を救う一瞬の回路を見つけることができる。タンゴ自体の構造は頽廃そのものだが、その血まみれの蛇の濡れた行跡のような旋回のコースを儀式的にたどることによって、すくなくとも精神の腐敗からは逃れることはできるのだ。」(伊藤俊治『愛の衣装』ちくま文庫 p.141)

ウォン・カーウァイ監督の映画『ブエノスアイレス』(1997)は、ブエノスアイレスの場末を舞台に、惹かれ合いながらも、傷つけることしかできない男と男の刹那的な愛、退廃と官能に彩られた一つの愛の形を徹底的に突き放したクールな視点で見事に描いていた。圧巻は調理場で男二人がタンゴを踊るシーン。