こんなんでいいの?とひっかかった社会学系の研究の新動向の紹介がありました。
8月1日朝日新聞夕刊「新科学論 フィールド派の今3」
そこでは、「ブログから現代人を探る」という大見出しの下に、情報学や社会心理学や社会調査論の専門家たちによるブログをフィールドとした新しい研究が紹介されていました。それらは現代版「考現学」であり、「心理学」であり、「民俗学」であるという位置づけです(文責:中村浩彦)。私がひっかかったのは、ブログを新たな研究のための調査フィールドとすることではありません。どんな関心の枠組みでそこから何を読み取ろうとしているのかという問題意識と方法論です。
例えば、「ブログを通したコミュニケーションの研究」に取り組もうとしている研究者の例があげられていますが、彼が「コミュニケーション」としてとらえられているのはテキスト・データ、分析手法はテキスト・マイニング、そして問題は「幸福語/不幸語」の出現頻度と単語関係から現代人の年齢別の「幸/不幸感」と出来事(恋愛/結婚)との関係を明らかにすることです。得られた結論は例えば「20代半ば以上は仕事が幸せ語とも不幸せ語とも、一番関係が強くなった」です。また、その同じ研究者は「ブログを書き続ける動機には自己を表現したい、自分のことを他人に理解してもらいたい、という欲求が挙げられる。自分のブログが読まれて、共感や励ましなどの反応があることを期待している(中略)顔を合わせてのコミュニケーションが苦手な人が増えている。ブログはそんな人が思いを語る場になる可能性がある」と述べています。
このようなブログをフィールドにした調査研究は今後ますます盛んになっていくのでしょうが、二つばかりひっかかることがあります。一つはそこでは、ネットそしてブログ独自のコミュニケーション環境を構成する種々のリンケージの技術に支えられたネットワーキングとしてのコミュニケーションへの視点が欠落しているように感じることです。二つ目は、そのような研究にはまる研究者の動機そのものがどこから調達されているのかな、という疑問です。それはブログを書き続ける動機とどう違うのか、あるいは同じなのか。違わないとすれば、「ブログを通したコミュニケーション研究をする研究者のコミュニケーション研究」も必要だと思います。
ちなみに、私個人のブログを書き続ける理由は上記のような動機ではまったく説明されません。そしてブログは部分的にはとっくにいわゆる「対面コミュニケーション」が苦手な人たちが「思いを語る場」になっています。さらにブログを通したコミュニケーションの現在はもっと「先」に到達していますし、その可能性はもっともっと「先」にあると感じています。