ブログという旅の行方

どんな旅も必然的に心へと赴くのでなければならない、でなければ何になるというのか?地球が丸いということは、すべてが許されているということだ。とりわけ、あのグローバリゼーション支配下の時代のあの気勢を殺ぐ、嘆かわしい、萎えさせる現実を受け入れること(地球[グローブ]=エピローグ)。/こころを求めること、あらゆる手段で、策略で、ダンスで、音楽で、愛の言葉で。旅ではなく、愛を語ること。

ル・クレジオ「アマミ、黒い声、裏からの声」星埜守之訳(『すばる』5月号、pp.146-147)

今年始め、1月25日に、まだ雪深い札幌に、札幌大学に、今福龍太さんがル・クレジオを伴ってやってきた。もちろん初めて会ったル・クレジオは驚くほど若々しく、その深く複雑で熱く静かな佇まいは、吉増剛造さんを連想させた。札大での催しの後、ル・クレジオは津島祐子さんとともに、登別市平取町二風谷を訪れ、そう萱野茂さんがまだご存命中だった、その後、今福さんの導きで奄美群島にまで旅をした。その奄美への旅をきっかけに「アマミ、黒い声、裏からの声」が書かれた。札大で行われた饗宴は実に素晴らしいもので、それについてはいずれ改めて書きたい。

最近ずっと気になっていたル・クレジオの上の言葉を引用したのは、『横浜逍遥亭』の中山さんの最新エントリーを読んでいて、連想したからだった。
「速いコミュニケーションの功罪」http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20060920
ル・クレジオがいう「旅」に「ブログ」を重ねて読もうとする自分がいることに気づいた。ブログもまた「心」へと赴く一種の旅だと思う。中山さんの「毎日をブログとともに過ごした感想」に、ブログというローカルで心もとない場所を拠点にした旅のなかで「グローバリゼーション」に抵抗する「こころ」を己の中に求め、立ち上げようとする闘いの意志を感じた。いつもながら、いつも以上に鼓舞された。それは、ル・クレジオも願っている「グローバリゼーション」に拮抗するような途方もない「愛を語ること」につながる道なのかもしれないと思った。