卑近な恥ずかしい話だが、私はいまでも印刷するとき、ちょっとドキドキする。年賀状とか人にあげる写真というような特別な場合だけでなく、ちょっとした文書や自分用の写真などを印刷するときでさえ、プリンターが稼働し始めると、他のことが手につかず、プリンターが用紙を吐き出すまで、そわそわする。そして直前まで白紙だった紙に文字や絵が印刷されたのを見る瞬間、不安が一種の恍惚感に入れ替わる。これも一種のビョーキかもしれない。この症状は今まで口外しなかった。ところが、これは当然の、堂々と威張ってもいいほどの症状であることが判明した。鈴木一誌著『ページと力』のお陰である。
- 作者: 鈴木一誌
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2002/10
- メディア: 単行本
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本書の「2デジタル化されるデザイン」の「印刷という定点」(124頁〜135頁)を読んだ時、私はそれまでの私の印刷体験の意味を一気に悟ることになった。いわゆるDTPでさえも「プリ・プレス」と言って、本番の印刷の前の工程までをデジタル化する技術でしかなく、印刷本番には、関係者全員がまるで出産にでも立ち会うように立ち会うのだということを初めて知った。それを「刷り出し立ち会い」という。今まで私が個人的に印刷機を固唾を呑んで見守ってきたようにである。「刷り出し立ち会い」の逸話にはドキドキするほどだった。
なぜ刷り出し立ち会いが必要なのだろうか。印刷は、転写ではなく表現だからだ。なにかの再現ならば、手本となるオリジナルがあることになり、そこに目標を定めればよい。だが、ほとんどの場合、再現ではない。(125頁)
(中略)
印刷は、原稿をページ上にあらたに表現することだ。あらゆる準備、多くの作業が、印刷という一点に集まる。印刷で失敗すればすべてが徒労に終わる。(126頁)
鈴木氏のいう「表現」に対比された「転写」、「再現」をまとめて「複製」とみなせるとして、印刷と複製は似て非なるものである、実は根本的に違う。これが鈴木一誌氏の『ページと力』の基調をなす発見でもあると感じた。プリントとコピーは違う。かつて家庭で流行した「プリントごっこ」でさえ、あれは複製ではなく、表現としての印刷の体験だったのだ。印刷と複製は生命と機械の違いに類比的である。ところが現代の常識は、ベンヤミンのせいかどうかは不明だが、とにかく印刷を複製の基準で見るようになってしまった。しかし、印刷の現場を具体的に丁寧に観察するならば、印刷は複製とは違い、一期一会の、一回きりの、決して正確には反復できない、正に「生命」そのもののようなプロセスなのである。
しかも、そのような印刷は、かのフランス「人権宣言」(1789年)において、万人の表現する権利のひとつの柱として宣言されていたのである。
思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。したがってすべての市民は、自由に発言し、記述し、印刷することができる。ただし、法律により規定された場合におけるこの自由の濫用については、責任を負わなければならない。
(「人および市民の権利宣言」第11条、高木八尺ほか編『人権宣言集』岩波文庫、1957年)
権利は、いうまでもなく自由と責任の表裏一体である。では、印刷という一点に収斂する世界において、表現の自由と責任の実態はどうなっているか。さすがに市民革命を経た欧米には万人に開かれ共有されるルールが構築されてきた。他方日本にはそれが欠けている。そのことが鈴木氏を「ページネーションのための基本マニュアル」作成に駆り立てた理由のひとつだった。
私は日々ちょっとドキドキしながら印刷している時、機械に還元されない生命の飛躍(ベルクソン)と同時に市民革命の息吹にも触れているわけなのだった。だから、印刷論を展開するには、生命論から社会論までをも視野に入れる必要があることになる。私の理解では、その際に何よりも注目されるべきは「ページ」という存在しているようで存在していない不思議な単位、人間の世界認識のかなり深いところで生成し続ける秩序なのだというのが、鈴木氏の驚くべき発見である。