アウラ

そもそもアウラとは何か。空間と時間の織りなす不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現われているものである。夏の真昼、静かに憩いながら、地平に連なる山なみを、あるいは眺めている者の上に影を投げかけている木の枝を、瞬間あるいは時間がそれらの現われ方にかかわってくるまで、目で追うこと------これがこの山々のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである。さて、事物を自分たちに、いやむしろ大衆に<より近づけること>は、現代人の熱烈な傾向であるが、それと並んで、あらゆる状況に含まれる一回的なるものを、その状況を複製することを通じて克服するのも、同じく彼らの熱烈な傾向である。対象をごく近くに像(絵画や直接イメージ)で、いや模像で所有したいという欲求は、日ごとにあらがいがたく妥当性をもってきつつある。そして写真入り新聞や週間ニュース映画が提供するたぐいの模像が、像と異なることは見まがいようがない。像においては一回性と持続性が密接に結びついているとすれば、模像においては一時性と反復可能性が同じく密接に結びついている。対象をその被いから取り出すこと、アウラを崩壊させることは、ある種の知覚の特徴である。この知覚は、この世に存在するすべての同種なるものに対する感覚をきわめて発達させているので、複製という手段によって、一回的なものからも同種なるものを獲得する。

 ヴァルター・ベンヤミン 「写真小史」(『図説 写真小史』ちくま学芸文庫、36頁〜38頁、asin:4480084193


辺見庸が小学校の投票場で出会った見知らぬ老人に伊藤律(いとうりつ, 1913年6月27日–1989年8月7日)の面影を見て、記者時代の1980年に北京空港で彼にまぢかに接した時を追憶する文章を書いていた。「完璧な複製時代のいまでは絶対にありえない、唯一無二の人の原質と歴史の肉感が伊藤律にはあった」という。あれこそベンヤミンのいう「アウラ」ではなかったか、と。

伊藤はとうに亡くなっている。あの伊藤はそれに、眼の前の老人にはない妖しい暈(かさ)のようなものをやせさらばえたからだから発していたのだ。あれはなんだったのだろう。北京でまぢかに伊藤を見てから、そうだ、ちょうど三十年になる。
 かつて伊藤律(1913–1989)という人がいた。もう知る人もすくなかろう。知ったとて、いまを生きる迷いがなにほどか晴れるというものでもない。だが、私はあの暈をずっと忘れられないでいる。伊藤は徳田球一(共産党初代書記長)に次ぐナンバー2のカリスマ的指導者として戦後共産党の再建につとめ、端正な容貌と明晰な頭脳でいっとき人びとをひきつけた。しかし、GHQ(連合国軍総司令部)と警察の追究で地下にもぐり、中国に密航、野坂参三(党初代議長)らと北京で合流して対日工作にたずさわっていた。伊藤律はその後、党から「スパイ」と断罪、除名され、以降、四半世紀以上行方がわからず死亡説もながれていた。実際には当時の日中共産党の秘密合意のもと中国で幽閉されていたのだった。ゾルゲ事件発覚のきっかけとなる情報を当局に提供したといわれたり、逆に潔白をあかす資料が見つかったとされたり、伊藤律共産主義運動の忠実な使徒であったか“ユダ”であったかは、戦後日本政治のなりたちのいかがわしさとどこかで交わるものもあったからであろう、大いに関心がもたれた。
 八〇年九月三日早朝、私は北京空港で胸ときめかせて彼をまった。帰国を許された伊藤がやがてあらわれた。「ああ」と声をだしてしまった。当時まだ六十七の彼は、歩行もままならないボロボロの老人であったからだ。なにがあったか片眼が半ゆでの卵白みたいに白くにごり、耳もほとんど聞こえないようすで、あごをあげ鶏のようにやせた首を左右にふって人の気配をあなぐるのだった。記者たちの最前列にたった私はありったけの大声で問うた。「伊藤律さんですかあ」。老人はあらぬ方に顔をむけて、問いに応じるのではなく、みずから「私が伊藤律です」とはっきり名のり「祖国のかたがたにお会いして懐かしくぞんじます」とつづけた。「ソコク」の発音に血がにじんでいる気がした。老人の声はふるえていた。が、凛(りん)とした芯と艶があった。無惨に傷んだからだからは、暈というか磁気というのか、視えない胆力と品位のようなものが放射されていた。そして、ほんのかすかに性的ななにかが。六分間、私は魅入られた。
 あれが「アウラ」というものではなかったかと、ときどきおもう。「どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的にあらわれる」(ヴァルター・ベンヤミン)というアウラとは、まさに三十年前のあれではなかったか。アウラゆえに彼は滅ぼされたのかもしれない。完ぺきな複製時代のいまでは絶対にありえない、唯一無二の人の原質と歴史の肉感が伊藤律にはあった。してみれば、私がこの世にアウラを見たのは、あの朝の伊藤律で最後だったことになる。あとはみな、まがいとコピーばかりだった。彼が“ユダ”であったかどうかなど、大小の無自覚なユダの群れでしかなりたっていないこの国では、もはや問いが真の問いたりえない。

 辺見庸アウラの記憶/伊藤律との六分間」(「室蘭民報」2010年7月24日)


辺見庸にとって伊藤律の記憶はベンヤミンのいう一回性と持続性が密接に結びついた「像」である。だが、私はそれを持つことはできない。まさに「完ぺきな複製時代のいま」、例えば、YouTube伊藤律の1980年の帰国時のニュース映像の断片、つまりベンヤミンのいう一時性と反復可能性が密接に結びついた「模像」を見ることができるだけである。しかし、そんな模像からでも辺見庸のいう「アウラ」を感じることができるような気がするのは錯覚だろうか。それとも、辺見庸の「像」を記述する言葉の力によるのだろうか。