母語(mother tongue)の深さ

「母国語」よりも「母語」という言い方の方が好きだ。「国語」よりも「日本語」の方が好きだ。言語は必ずしも国の言語ではないから。日本語は日本国、国家には束縛されない。「言語」という言い方も好きではない。「言葉」という言い方に留まりたい。「言語」と言った途端に失われてしまう脆いけど大切なものが「言葉」にはたくさんあると感じる。「言葉」は「言語」よりもずっと複雑で深くしなやかなボディを持つと思う。

母語」は英語で”mother tongue”。”mother language”という言い方もあるが、”mother tongue”、「母の舌」、「母なる舌」の方が、母語、日本語、言葉のルーツやその奥深さに向かって想像力を働かせやすい。私は<母なる舌>を継承している。

もう十年くらい前に放映されたNHKのドキュメンタリー番組のことを今でも鮮明に覚えている。それは、吉増剛造がニューヨークのブルックリンにある映像博物館にジョナス・メカスを訪ねてダウンタウンを一緒に歩きながら、対話を重ねるという内容だった。その時私は初めて、母国リトアニアを追われるようにしてニューヨークに来たばかりのメカスが母語リトアニア語の文字通りの代わりとして、いつも持ち歩くようなったのが、あのボーレックスのカメラだったこと、しかもカメラは普通そう連想されがちな特別な「眼」ではなく、むしろ「舌」であることを深い驚きとともに知った。眼ではなく、舌に直結したカメラによって撮影された膨大なフィルムが、シネマ言語的な素材となり、そこから詩を創造するようにして時間と手間をかけて編集されて出来上がったのが、メカスの母なる舌の震えのような映画だった。

人は母語と共にしかちゃんと育っていかない。

メカスの言うその「ちゃんと」の意味を、私は十年以上あれこれ考え続けてきたように思う。

そして最近見た<media CLUBKING Podcast: 松任谷由実×茂木健一郎対談>(かなり凝った編集のビデオ(MPEG4)がPodcastされています)の中で、ユーミンの歌詞は絶対英訳できない、という内容の発言を聞いたときに、ああ、二人は母語というものの絶対的な根深さに触れているなあ、と強く感じた。つまり、全身全霊を満たす舌の震えの体験の構造、ボディとしての母語が持つ絶対性に。翻訳に関しては、翻訳の定義の数だけ翻訳は可能であると言えるが、しかし、母語の絶対的な深さに関しては、これは翻訳不可能なものとして体験されるしかない、と私は思う。