誰もいない教室

今日から大学は秋学期。初っぱなから2講連続、90分×2=180分、3時間、しゃべりっぱなしで喉が痛い。実は、喉の調子がずっとおかしくて、昨日、堪え切れずに、近所の耳鼻咽喉科専門の病院に行った。声帯にポリープでもできたのかな、と思っていた。初めて行ったその病院では、私以外の患者はみなまだ若い、多分二十代の母親同伴の幼児たちだった。そしてスーパーなんかでよく見かける「遊び場」までが設けられていて、三組の母子がそこで静かに待機していた。待合コーナーの固めのソファに腰掛けて、持参した野矢茂樹著「『論理哲学論考』を読む」を読んでいた。隣では一組の母子が絵本を覗いている。二歳くらいの男の子がまだつたない発音で一生懸命音読するのを若い母親が黙って聞いていた。他に、診察中の一組、奥の部屋に二組の母子がいたことを後で知った。
存在論」は語り得ない、ウィトゲンシュタインの「独我論」は、緩い「現象主義的」独我論とは似て非なるラジカルな「存在論的」独我論なり、というスリリングな行(くだり)に差し掛かったとき、「三上さーん」と声が掛かった。どうも幼児がお得意様の病院のせいか、看護婦さんたちの応対はやけに優しく、こそばゆい。満面笑顔の長身の美人の看護婦さんが、わざわざ待合室まで出迎えてくれて、まだ見ぬお医者さんの控える診察室まで先導してくれ、ドアを開けてくれ、先生、三上さんです、と紹介までしてくれ、三上さん、お荷物はこちらのかごのほうへ、では、こちらの椅子にお座りください、と至れり尽くせりだった。大病院は別にして、どこの個人病院も最近はそうなのだろうか。
(存在することは語ることの前提だから、存在するもの、例えば、三上勝生について、「三上勝生札幌大学の教員である」と言うことはできるが、「三上勝生は存在する」と言うことは正規にはできない、つまり、論理は存在論に手を出せない。存在しているがゆえに「三上勝生」と言える三上勝生について「存在する」と言うことはトートロジーですらない、と野矢さんは説得的な議論を展開していた。)
私から見てまだ若い男性医師もまた満面笑顔でとても優しい口調で問診を始めた。しかしその物腰と口調の優しさの陰で実は作戦は着々と実行に移されていたことを後で知ることになった。問診後の診察は迅速だった。まず、鼻を見せてもらいます、痛くないですからね。はい、ちょっと薬をさしますね。次に喉をみせてもらいます、うつむいて舌を出してもらえますか、エーと声を出して、お上手ですよ、はい終わりました。喉が少し腫れているようですね。ご心配なさっている声帯や器官を調べるには、このファイバースコープを使います。全然平気です。細いものですし、痛くもありませんよ。さきほど、鼻から軽い麻酔薬を入れておきましたし。(えっ?いつの間に。)あっ、そうですか。麻酔が効き始めるまで、喉の吸入を、啖が切れますから、してらしてください。
今度は先ほどとは別の看護婦さんに別室に案内され、簡単な説明の後、吸入器を渡された。その看護婦さんは吸入専門のようだった。私が数分間の吸入をしている間、彼女はその部屋で私が終わるのをただ待っていた。閉じられたドアの向こうの診察室から次の患者=幼児を問診する医師の声が聞こえて来た。手際がいい、良すぎる、と私は感心していた。しかも、私は幼児のように扱われているようだ、と思った。
吸入後、すぐにまた診察室に案内されて、先ほどの椅子に座らされ、ファイバースコープの説明を受けた。映像を録画して、パソコンに落として、後でそれを一緒に見ながら説明するとのことだった。顔を上げて、鼻の右の穴からファイバースコープを挿入された。麻酔が効いているせいか、痛みはほとんどなかったが、ファイバースコープの異物感が鼻の奥から喉の奥へと移動しているのははっきりと感じられた。作業の途中、医師はやはり優しい口調で、こうしてください、ああしてください、はい、お上手ですよ、という調子で巧みに私を誘導したのだった。その間わずか1分半。でも、こういうことが苦手な私には、1時間半、そう、ちょうど講義1こま分くらいの長さに感じられたのだった。ファイバースコープがそおっとそおっと静かに丁寧に抜かれて行く間の客観的にはおそらく数秒間でさえ、数十分の実感を覚えたほどだった。情けないことに、よほど全身に力が入っていたのか、ファイバースコープが抜き去られた直後、脇腹の筋肉が痙攣した。どっと疲労感が襲ってきた。

自分の鼻の穴の奥から喉、声帯、食道と気管に枝分かれする辺り、そして気管の上部までの録画映像を見せられながら、にわかにはそれが自分の体内の一部分であるとは実感できないものだが、いろいろと診断説明を受ける内に、これが俺の声帯で、これが弁で、これが気管の入り口か、とある種の感慨を覚え始めていた。

結局、喫煙の影響による咽喉部の炎症で、声帯にポリープは見られないし、周辺部に腫瘍も無し、という診断結果だった。医師は禁煙しなさい、とは決して言わなかった。喫煙が悪いとも言わなかった。喫煙者に多く見られる炎症ですね、としか言わなかった。しかし、確かに赤みを帯びた自分の咽喉部を見せられて、私の方から思わず、禁煙しなきゃいけないですよね、と言ってしまった。しかし、それに対しても、医師は禁煙までしなくとも、少し減らして、喉を休める、いたわるようにすれば、よろしいんじゃないでしょうか、としか言わなかった。医師の哲学は明確だった。患者本人がしっかりと自覚しないかぎり、いくら真実といえども、医師の一方的な言葉だけでは、効力はない。患者が自ら事実に目覚めるように、言葉と映像を駆使して、導く。ガイドする。まだ若いのに、できた医師だ、と私は感心した。

そんなことがあって、今日の秋学期初日を迎え、鼻の奥に軽い痛みを覚えつつ、言語哲学入門の1403教室に向かった私は、教室に誰もいない可能性に思いを馳せていた。それは私が教室を間違えるというようなことではない。それも十分ありうるが、そうではなくて、履修登録者182名全員が偶然にもそろって、初回くらい休んでも平気だろう、と高を括って、来ない、という可能性についてである。それはおよそありえないが、まったくありえなくはないことだ。教室に一人もいなかったら、と私は空想を楽しんでいた。
人生、世の中、何が起るか分かったもんではない。ウィトゲンシュタインが明らかにしたように、確かに言語一般の、思考一般の大枠のような限界はあるにしても、ある時ある場所で一体何が起るかは、分かったものではない。茂木健一郎さんが常々強調している、偶有性、コンティンジェンシー、contingencyだ。しかし、その偶発事を幸運として受け止める、あるいは幸運のような偶発事を自分に呼び込むような力、僥倖、セレンディピティserendipityの力を身につけることで、いつも、何か面白そうなことが起る予感に満ち満ちた人生を送ることができるようになれるのではないか。そして、そんな力を身につけるには、先ずは、何もいいことは起りそうもない生彩を欠いた平板な現実を偶有性の相において見ることを学ぶことが必要なのではないか。そして、、、。そんなことを考えながら、私は誰もいないかもしれない教室に近づいた。

到着した教室では、数えていないから不明だが、長年の勘では150人以上の学生たちが、比較的静かに待っていてくれた。初回は導入目的の形式的な話、教科書はなんだとか、出欠チェックはどうするとか、に終止することが多いものなのだが、私は初回から人生、世界、言語、思考、経験、論理、独我論、偶有性、僥倖を巡ってかなりディープなトークを可能なかぎり平易な言葉で90分間貫いた。しかし、予想以上に学生たちの反応はよく、「気」をこちらに向けてくれたので、教室は随分よい雰囲気になり、昨日の医師のように、よいガイド役に徹するという私のミッションを再確認することができた。

10分の休憩をはさんでの特別演習は、サウンドスケープをテーマにした内容で、鳥越けいこさん、小松正史さん、そしてサウンドスケープ創始者マリー・シェーファーを参照しながら、特に視覚重視のランドスケープの観念を補完するために、音楽を超えた、あるいは音楽の根源に広がる音の風景、サウンドスケープの発見、世界を非視覚的に感受するための聴覚のチューニング、調律の大切さについて、二人の学生といろいろ議論しているうちに、あっという間に90分が経ってしまった。演習中話題にあがった職業関連サイトは「キャリアマトリックス」でした。

「キャリアマトリックスhttp://cmx.vrsys.net/TOP/

というわけで、秋学期初日を無事終えたのでした。