Life Design

前回の講義では上映を控えた「自画像スライドショー」について、学生たちに再度趣旨(他人の自己批評の仕方を相互に知ることを通して、自己批評をさらに一段深めることになる)を説明したところ、全員の了解が得られたので、上映した。他人の自画像を見ることは、見ないでは決して分からない、他人の気持ちへの接近、いわゆる他者への想像力にも繋がる。何とも言えぬ味のある数々の自画像を学生たちと一緒に見て、その中には当然あの私の自画像も含まれているのだが、深い感慨にとらわれた。教室には何度も暖かい笑い声が広がった。BGMに選んだアストル・ピアソラの「タンゴ・スウィーツ」が再度自分を見つめ、見つめられるハードルを飛び越える勇気を鼓舞してくれたようだ。

ちなみに、アルゼンチン・タンゴとは、(私の拙い理解では、)そのままでは自分を押しつぶしかねない深い憂愁、憂鬱に、自分の外へと繋がる奇跡的な通路、「形」(メロディー、ダンス)を与えることに成功している音楽のこと。

情報デザインの母体となる情報は人類の体験の記録すべてであり、それはITエンジニアやプロのデザイナーの独壇場ではない。私たち一人一人がエンジニアかつデザイナーとして、たとえどんなに未熟でも、関わっていくことができる、そんな道具と環境を私たちは比較的容易に手に入れられるようになったのだ。それを知り、自覚的なエンジアかつデザイナーになって、できるだけ多くの人類の経験の記録に触れ(インプット)ると同時に、自ら経験したことをできるだけちゃんと記録し、大切に保存し、いつでも呼び出せる状態にしておくこと。それが新しいアイデアの創出にもつながり、自信にも繋がる。自分の経験すべてを尊重する、大切にする姿勢こそが、他人が関わる世界での、本当に役に立つ「形」を作る(デザイン)に繋がる。自分を大切にできない人間に、よいデザインはできない。よいデザインの向こう側には自分を大切にできている人が控えている。

ほっといたら、どんどん忘れて行く脳の性質をわきまえ、脳に忘れさせないように、記憶想起のためのイメージと言葉の記録ツールを自覚的に備えること。そしてそれを蓄え、いつでも引き出すことができる場所を確保すること。例えば、ウェブログ。/グーグルの人類の記録すべてに迫らんとする計画を知り、単に個々のサービスを受け身に享受するのではなく、その情報世界戦略とでもいうべき構想に思考を届かせる。/蓄えた記録を呼び出しやすいような構造(形)にすることが狭義の情報デザイン。その構造知もまた一段高い(「メタ」という)情報として記録される。/狭義の情報デザインのトレーニングは、そのようなメタ情報を下位の情報群に適用する、うまく適用できるようになるための訓練である。/しかし、そうすることの本当の意義は、この私が向き合う世界、人類の記録すべてからなるはずの膨大な情報世界の中から、この私にしかできない、作れない「形」を、少しでもよい形を作っていくことにこそ、ある。それは「人生設計」、Life Design。私たちは自分の人生、そこには当然多くの他人が関わっている、を少しでも魅力的なものとしてデザインする権利を持つ。情報デザインのひとつの究極の姿は、Life Designである。だから、自分を大切にできなければ、何も始まらない。/等々。

90分間熱くしゃべりまくってしまった。

下は前回の講義中、「写真俳句・短歌レッスン」で私が披露した写真と短歌の見本。自分でも二度と見たくなかった、スタンフォード滞在中、「ゲゲゲの鬼太郎」または「中島らも」と呼ばれていたときに、仲良くなったイタリアから来ていた北野武の映画が好きな言語学者サーシャが撮ってくれた写真。あいつはイタリアに帰っても仕事がないんだよと嘆いていたっけ。髪結いの彼女に養ってもらえばいいじゃない、と私は軽口をたたいてしまった。どうしてるかな。

家出れば
忽ち噴火
我が髪よ
カリフォルニアの
晴天の下