100色の自画像、100本の物語

過去の体験のすべてはどこかに記憶されているのかもしれませんが、思い出せる、想起できることはそんなに多くはないのが普通です。その少ない材料から私たちは自分自身、自己イメージを作り上げていると言えそうです。しかもその材料は都合のいい材料ばかりで、嫌な思い出、恥ずかしい思い出なんかは除けてあるのが普通です。

昔のアルバムなんかを開いて見るときも、すべてを丹念に見ることは稀で、いいところだけピックアップして見るのが普通ではないでしょうか。私がそうでした。見たくない写真が一杯あった。それに、そもそもアルバムを開こうとさえしなかった。どこかで「過去」に怯えていたのかもしれません。過去を直視すると、現在の自分が壊れてしまいそう。そう予感していたのかもしれません。過去には触れたくない事実が、蒸し返したくない問題が、乾き切っていない生傷がいっぱいある。

でも、過去に怯える自分って、なんだか変だな、と思い始めました。過去こそいまある自分の土台じゃないか。すべてと言い切る自信はないけど、ほとんどすべてと言ってもいいと思う。そんな過去のいいとこ取りだけで、自画像を描いても薄っぺらなものしか描けないよな。

過去が本当は100色の絵柄だとして、俺はせいぜい10色しか使わずに、自分を描いて、これが自分だと思い込もうとしているんじゃないか。どんな種類の体験も、自分を描くための色だと思えば、色数は多い方が自分を深く描けるんじゃないか。

あるいは、過去が本当は100本の映画に相当する物語が詰まっているのだとして、俺は自分について一本の映画に匹敵する物語さえ語れないんじゃないか。どんな人生でも、ちゃんと記憶を掘り起こせば、そこには100本の映画が作れるくらいの物語が詰まっているんじゃないか。

いつの頃からか、私はそんな風に考えるようになって、記憶を蘇らせること、過去を繙(ひもと)くことによって、「私」という絵はどんどん深まって行き、「私」という物語はどんどん膨らんで行くのだと確信するようになりました。

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先日お会いした『9.11-8.15日本心中』の大浦信行監督は、映画の本当の歴史は人類誕生とともに始まる、という非常に刺激的な持論をお持ちの方でした。技術としての歴史は百年そこそこかもしれないが、「映画体験」の本質は人類の誕生とともに開始したというわけです。私はその考えに深く共感しました。

以前にも書きましたが、実は私はいつもどこか映画を観るようにというか、映画の中にいるようにというか、そんな感覚で生きてきたからです。ですから、敢えて、映画を観る気にはならないことが多い。自分が毎日見ている「映画」のほうが生き生きとして面白いからです。たいていの映画は詰まらない。退屈する。時間がもったいない。偽物の映画を観る時間が、ホンモノの「映画」の時間の邪魔をする。そんなひねくれた考えさえ抱いているところがあります。

でも、『9.11-8.15日本心中』は私が日々観ている、生きているホンモノの「映画」に直結したというか、スーッと入ってきて、時計の時間では2時間20分の間、私はそれこそ映画を観ているという感覚を抱かなかった。あっという間の出来事に遭遇していたような気がしていました。

それはどうしてだったのかと考えました。おそらく、『9.11-8.15日本心中』に登場する、普通の意味での役者ではない役者たちがそれぞれの100色の自画像、ないしは100本の物語を感じさせてくれからなのだと思います。そして、もちろんそういうドキュメンタリー映画を作った大浦信行監督の多彩な自画像、多様な物語も私はその映画に感じた。そうやって感じ取った新たな色や物語が、私の中の色や物語と区別できないほど混じり合った。そんな体験だったように思います。こんなことは稀ですが。