模型飛行機とオニーサン:奄美自由大学体験記15

奄美大島は、島尾敏雄さんの観察を私なりに敷衍して言えば、自然の「廃墟」の上に営まれる生活を構成する多層な時間の流れがいわば瞬間冷凍されたかのような、太古からの異質な幾つかの時間がまるで地層のように折り重なって「見える」ような、そんな類い稀な世界である。その中に一歩足を踏み入れると、そこはたちまちにして、巨大な記憶想起装置として働き出す。私が奄美大島着陸直後から意識の底を絶えずちくりちくりと刺激されるような感覚を覚えていたのは、そのせいだと思う。前エントリーで触れた、学生さんたちを中心とする有志の人たちの深い心の籠った美しい「教科書」たちは、そのような一個の巨大な記憶召還装置の小さなモデルでもあったのだと気付いた。それらを開く度に、私は奄美大島のことではなく、ずっとずっと以前のあるタイプの記憶が蘇ることに驚いていた。

小学生の頃、学校の宿題はもちろんそっちのけで、空腹も忘れて、模型飛行機づくりに熱中していたときのことを思い出した。バルサと竹ひご、アルミニウム管で骨格をつくり、薄い和紙を翼や胴体に糊で貼付け、グリスをなじませたゴムを巻いた動力で飛ぶ飛行機だった。胴体にはニスを、翼の紙にはラッカーを塗って強度を増すこともした。何十機作っただろう。バルサをナイフで削り、サンドペーパーをかけ、竹ひごを蝋燭の焔で炙りながら曲げる。その時に竹ひごが少し焦げて薫る。そのにおいに恍惚とした。あのにおいは、どう表現していいのだろう、とくかく忘れられない。

四、五年は続けただろうか。なぜか、これが最後だと思い決めて、取り組んだのは、設計図から描き起こして、数ヶ月かけて作った、全長2m弱の、折りたたみ式プロペラの、胴体の内部に格納された細いゴムを100本くらい束ねて作った動力で飛ぶ巨大模型飛行機だった。中学3年のときだった。プロペラの設計が一番難しかった。それはゴム動力で飛ぶ模型飛行機の常識を超えていたし、設計法を教えてくれる人もいなかったので、仕方なく当時大人のマニアが少なくなかったラジコン飛行機の専門誌に載っていた設計図を頼りに、見よう見まねで設計図を引き、イメージと勘をたよりに、作ったのだった。そのプロペラは我ながら美しい出来映えで、それが出来ただけで、もうほとんど満足しかけていた。

結局、完成した怪物飛行機はある日の夕方、近所の小学校のグラウンドで一度だけ試験飛行した。噂を聞きつけた近所の同級生や下級生、そして子供たちの間で「オニーサン」というあだ名のオジさんが駆けつけてくれた。そのオニーサンについて、私の両親も含め、級友たちの両親も、決して良くは言わなかったが、子供たちはみんな彼の味方で、放課後は毎日のように、オニーサンの家にたむろしては、それはそれは色んなことを学んだのだった。多種多様な手品のテクニック、色んなクイズの作り方、宮沢賢治のこと、当時は極めて珍しかったウェイトトレーニング用の、本格的な重量挙げやベンチプレスを使ったトレーニング、……。オニーサンはトーダイは出たものの、病気が理由で、地元に戻ってきたという噂だった。独身で、なぜか養鶏所を経営しながら、大人たちとの付き合いはほとんどなく、子供たちとしか話さなかった、そんな不思議な人だった。ゴム動力の模型飛行機の魅力に開眼させてくれたのもオニーサンだった。

子供たちとオニーサンは私とその怪物飛行機を取り囲み、さて、いよいよ初飛行にとりかからんとしたとき、約100本からなる太いゴムの束を手動では満足に「巻く」ことができないことが判明したのだった。それでも交代でゴムを巻けるところまで巻いて、最後は私が一人で、折りたたまれたプロペラをひろげて左手で持ち、胴体重心部分を右手で支え、ひと呼吸おいてから、えいっと、空に投じた。歓声は数秒で嘆声に変った。十メートルも飛ばないうちに、頭部から見事に墜落した。

オニーサンは慰めてくれた。「こんなでかいやつを作っただけでも大したもんだ。将来、航空工学でも勉強したらいい。」確か、そう言ってくれたのだった。でもそのときの私にはピンと来なかった。両親も、そして当時同居していた祖父母も私の飛行機作りへの熱中を快くは思っていなかったようだ。褒められた記憶はない。想起できない。

(墜落後、オニーサンと墜落原因について検証しているところ(多分)。左がわのジーンズの脚は私。当時1970年代前半はベルボトムが流行していた。右側、いつも白いトレパン(今はもう見ることのない綿のトレーニング・パンツ)を穿いていたオニーサンの脚。プロペラが折りたたみ式であることが分かると思う。)

2週間前の叔父の葬儀で久しぶりに会った従弟が、私が持参した昔懐かしい写真を見ていて、あの巨大模型飛行機を想起したのだった。お兄さん、(彼は今でも私をそう呼ぶ)あの飛行機のこと覚えていますよ。へーっ、覚えてたの、と私はびっくりしたのだった。飛行機が写っている写真はなかったが、同じ頃撮った写真が想起の引き金になったのだ。私は中学3年生、彼は小学5年生だった。