新しい天使

先週のエントリー「忘れっぽい天使」で、私は非常に興味深い勘違いを書いた。今日になってそれを知った。

ベンヤミンが購入して私蔵していたパウル・クレーの天使の絵、有名な論文「歴史の概念について[歴史哲学テーゼ]」の中で大変見事に解釈されていたその絵は「忘れっぽい天使」ではなく、「新しい天使」だった。

昨年買った『ベンヤミン・コレクション1近代の意味』(ちくま学芸文庫)の表紙、カバーデザインには「忘れっぽい天使」が使われていたはずだと思い込んでいて、今日それを探し出して見て、びっくり!「忘れっぽい天使」ではなかった。そうだ、この異様な天使、「新しい天使」だった。しかも、最近目を向けていかった本棚のある場所には、「新しい天使」の小さなコピーが置いてあったではないか。なんという忘れっぽさ!

しかしmmpoloさんの報告にあった「無意識の記憶」の一種なのだろうか、私の「無意識」はかすかなひっかかりを感じていたらしく、先週のエントリーにも、次のような変なことを付け足すように書いていた。

忘れない天使、記憶する天使を描いた例はあるのだろうか。もし今私が描くとしたら、見開いた両眼から血の涙を流している天使を描くかもしれないと思った。

これを書いた時の私は「忘れっぽい天使」の向こう側に「新しい天使」の記憶をうっすらと感じていたのに違いない。クレーの「新しい天使」は両眼を見開き、透明な血を流しているようにも見えなくはないし、強度の斜視のように左右にひろがった視線はその先に普通は見えない何かを見ているようだ。

この「新しい天使(アンゲルス・ノーヴス)」についてベンヤミンは次のように書いていた。

この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そしえ翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているに違いない。彼は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつの破局(カタストローフ)だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集め繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。
ベンヤミン・コレクション1近代の意味』(ちくま学芸文庫)p.653

そうそう。大切なことは「そこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集め繋ぎ合わせ」ること。

今日の講義では、主に今までの自分を根こそぎにするくらいの変化を迎え入れることが「理解する」ということであり、そういう理解を迫るものこそ、ウィトゲンシュタインが拒絶しつつ浮き彫りにした「謎」であるような「他者」であるということを敷衍した。