振り向けば、そこには




これまでの復習をかねて、『論考』に見てとれる世界の三つのイメージを確認してから、時間をめぐって提出されたいくつかのイメージを再検討した。

事実の総体としての世界
事実を分析してえられる不変の実体からなる世界
生きる意志に満たされた世界

過去と未来が現在に凝縮するイメージ
現在が過去と未来に拡張するイメージ
直線的に流れるイメージ
周期的かつ螺旋的イメージ
KIMOUSAGI君の「ループする時間」のイメージ
ベルクソンの倒立した円錐のイメージ

そして、「過去に舞い降りる未来」で書いた、過去や未来を空間的表象にとらわれずにイメージ化する私の思考実験における、いわば「流れない時間」というか「すべては過去」説、美崎薫さんの「過ぎ去ったものではなく、発見の多い現在であり未来でもある」過去観。

すなわち、「現在」とは過去の縁、限界そのもののことで、「未来」とは過去の可能態にすぎないのではないか、つまり現在も未来も「語りえない」。

また、ウィトゲンシュタインの超俗的な幸福観を補完する「猥雑な幸福観」について、「世界」には属さない主体の「生きる意志」は一体どこから調達されうるのか、という疑問に対して、それは世界と言語の本質を見据えようとする眼差しの裏側、背後に控える「社会」ではないか、というところまで進む。