過去に舞い降りる未来


朝の散歩の復路で立ち寄ることが多い公園から遠望する藻岩山。「寒い」景観。

すでに雪に二度埋もれたにもかかわらず、まだ実をつけている「シラタマノキ」。しぶとい。見かけに寄らず、タフだ。

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両眼は正面を、前を向いている。空間的な前方は身体行動が展開していく方向だ。時間の前方とは何だろうか、と考えていた。普通、時間的な「前」とは過去を指す。同じように、空間的な後方は身体の背後であり、時間的な「後」は未来を指す。少なくても、日本語、漢字表記においては、空間の前後と時間の前後は交差している。

両眼が見つめ、体を向ける空間的な方向は、実は時間的には過去なのだろうか。もしかしたら、私はいつも過去の方角へ分け入るように進んでいる?

空間的、ないしは視覚的表象の罠?

もし、目が見えなかったら、とよく想像する。視覚以外の聴覚、嗅覚、触覚等を頼りに生きることになったとしたら。

私は色弱のハンディキャップからか、幼いころから、色よりは形に敏感で、そして特に聴覚が鋭敏だった。一度聴いた声の質はほとんど忘れない。顔と名前は忘れても、筆跡と声は忘れない、という特技がある。それはともかく、もし目が見えなくなったら、私の場合は、聴覚が今以上に冴えまくるだろうと想像する。そして聴覚は視覚とは異なり、全方位的だから、視覚空間的な前後のイメージは薄らぎ、時間的なイメージが優勢になると想像する。そうすると、心の目が見る頭に浮かぶイメージは過去であるから、いわば、前方に過去を見ながら生きるような感覚が当たり前になるような気がする。そして本来人間はそうなのではないか、と考えはじめた。過去を見て、過去に向かって進んでいるのではないのだろうか。そして、過去を切り裂くように、あるいは過去にどこからともなく舞い降りるようにしか、未来は到来しない、とか。

ベンヤミンが「歴史の天使」として魅力的な解釈を施したパウル・クレーが描いた「新しい天使」、過去の方を見据え、過去からの風によって未来の方へ後ろ向きのまま吹き飛ばされるというイメージ。そして美崎薫さんの次のような報告がなまなましく感じられる。

スライドショウで過去を体験し続ける日々を送っている。じつは過去というのは、過ぎ去ったものではなく、発見の多い現在であり未来でもあるということに気づき始めている。体験しているはずの過去が、現在に強く影響して、体験していたと思っていた過去が、じつはそうではなかったのだと気づくことさえあるからである。

過去は刺激的だ。過去に体験したと思ったことを、充分体験していなかったとくり返し直面することは、現在新たに体験することが、100%体験できていないのだと気づかせてくれ、体験をその場できちんと体験することにたいして、謙虚な気持ちにさせてくれる。人生は発見の連続であると同時に、くり返しには飽きてくる。くり返しでない体験をすることこそ、価値があるのだと気づき始めている。

過去を体験することでなにが起きているのか。自分自身のことでもあり、筆者には充分分析できているとは言いがたい。いろいろ討論していけたらと思う。
美崎薫「『記憶する住宅』に住む:人生を記録する実践とその研究動向」(『認知科学』VOL.12, NO.2 June 2005所収, p.125)

明日の講義「言語哲学入門」では、先週の講義録「充実した時間とは」のコメント欄における時間のイメージをめぐる活発な議論、特にその中でKIMOUSAGI君が提示した「ループする時間」を取り上げて、時間のイメージをもう少し掘り下げ、また、余裕があれば、「無時間性」としての「永遠の相」という観念に関わる、昨日の講義メモ「ウィトゲンシュタインの幸福観」にも触れたいと考えている。