ウィトゲンシュタインの幸福観

論理哲学論考』を、その著者ウィトゲンシュタインに逆らって、徹底的に読み抜かんとする野矢茂樹さんは、『論考』の通奏低音のような「声」を次のように聞き分けている。(『ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む』13「死について、幸福について」)

  • ウィトゲンシュタインが倫理と呼び、価値と呼び、あるいは世界の意義と呼ぶものは、すべて「幸福」と彼が呼ぶものに収斂する。しかも、それは現世的な幸福ではなく、むしろ宗教的幸福と呼びうるようなものにほかならなかった。(301頁)
  • 幸福の本質はいっさいの現世的な状態とは別のところにある。それゆえ、幸福な人は何が起ころうとも幸福であり、不幸な人は何が起ころうとも不幸である。(302頁)
  • 私の人生がかくもみじめである、あるいは満ち足りているのも、それは私の人生上の世俗的なエピソードのためではない。ひとえに私の生きる意志にかかっている。生きようとすること。自殺ぎりぎりのところで踏みとどまっていたウィトゲンシュタインの声にならない声。それこそが『論考』の沈黙の意味するところだった。それはたんに語ることができないという沈黙ではない。示すこともできない。いっそう深いその沈黙のうちに差し出される「生の器」を、生きる意志で満たすこと。かくして、『論考』全体を貫くウィトゲンシュタインのメッセージは、次の一言に集約される。

幸福に生きよ!(『草稿』1916年7月8日)

(307頁)

このような超絶的な幸福観にはどこか何かが欠けていると感じられるはずである。現に野矢さんは最終章「『論考』の向こう」において、『論考』に欠けているものの「予感」を鋭く書き記している。これに関連して、「謎」、「他者」、「時間」を巡って美崎薫さんの思想にも言及しながら講義してきた。いずれまとめたいと思っている。

幸福観に関しては、私の観察では、人は「現世的な状態」で一喜一憂し、「人生上の世俗的なエピソード」によって、逆に「生きる意志」が湧いたり奪われたりする。人間のそのような「現世的な」脆さ、不安定さに「宗教的な」安定を対置することは、前者の孕む大切な何かを見逃してしまうように感じる。「現世」や「世俗」とともにあるようなもっと言わば猥雑な幸福観が成り立つような気がする。

野矢さんが解読したウィトゲンシュタインの幸福観に収斂していく生の言葉は以下の通りである。

  • 6.44 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。
  • 6.45 限界づけられた全体として世界を感じる(Gefühl)こと、ここに神秘がある。
  • 6.421 倫理は超越論的(transzendental)である。
  • 6.13 論理は超越論的(transzendental)である。
  • 6.421 (倫理と美はひとつである。/Ethik und Ästhetik sind Eins.)
  • ところで、芸術家の仕事のほかにも、世界を永遠の相のもとに(sub specie aeternitatis)つかまえるひとつの方法があると思われる。それは、私の考えでは、思想という方法である。思想は、いわば世界の上空を飛んで行き、世界をそのあるがままにしておく、そうして、飛びながら上空から世界を眺めるのである。

(『反哲学的断章』20頁)

  • 6.45 永遠の相のもとに世界を捉えるとは、世界を全体として------限界づけられた全体として------捉えることにほかならない。
  • 芸術作品は永遠の相のもとに見られた対象である。そしてよい生とは永遠の相のもとに見られた世界である。ここに芸術と倫理の関係がある。/日常の考察の仕方は諸対象をいわばそれらの中心から見るが、永遠の相のもとでの考察はそれらを外側から見る。/それゆえこの考察は世界全体を背景としてもっている。/あるいはそれは、時間・空間の中で対象を見るのではなく、時間・空間とともに見る、ということだろうか。/各々の対象(Ding)は論理的世界全体を、いわば論理空間全体を、生み出す。/永遠の相のもとで見られた対象とは、論理空間とともに見られた対象にほかならない。(こんな考えがしきりに浮かんでくるのだ。)

(『草稿』1916年10月7日)

  • 6.4311 死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。/永遠を時間的な永続ではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。
  • この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにしてひとは幸福でありうるのか。

(『草稿』1916年8月13日)

  • 6.41 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。
  • 善と悪は主体によってはじめて登場する。そして主体は世界に属さない。それは世界の限界である。/(ショーペンハウエルのように)こう述べることもできる。表象の世界は善でも悪でもない。善であったり悪であったりするのは意志する主体である。/これらの命題はすべてまったく明晰さを欠いていると私は自覚している。/つまり、これまで述べたことからすれば、意志する主体が幸福か不幸かでなければならないのだ。そして幸福も不幸も世界には属しえない。/主体が世界の一部ではなく世界の存在の前提であるように、善悪は世界の中の性質ではなく、主体の述語なのだ。/主体の本質はまだまったくベールの向こうにある。/そうだ。私の仕事は論理の基礎から世界の本質へと広がってきている。

(『草稿』1916年8月2日)

  • そして美とは、まさに幸福にするもののことだ。

(『草稿』1916年10月21日)

  • 5.621 世界と生とは一つである。
  • 幸福に生きよ!

(『草稿』1916年7月8日)