生きる希望、幸福のありか

映画館に観に行きたいなあと思ったが、結局行けず、レンタルビデオ屋に行く度にチェックするもいつも全部貸し出し中で、そのうち観るのをあきらめて、忘れかけていた映画「ALWAYS三丁目の夕日」。それがテレビ放映されることを帰宅後妻に知らされ、わくわくして、ついに観ることができた。

もう半年近く前、6月10日にjimihen2さんのエントリー「わが家で『三丁目の夕日』」を読んだ時、これは観たいなあと思ったのだった。

昨日発売になったばかりのDVDを早速買い求めてきた。
映画館に足繁く通った「ALWAYS 三丁目の夕日

部屋のカーテンを閉めて、一人だけの鑑賞会をスタートする。この映画は、ノスタルジー+べたべたの人情喜劇の映画だと言われるが、こんなにも「家族」を考えさせる映画はない。

平凡ではあるが、強いきずなで結びつく鈴木オート一家。
両親に逃げられて身寄りのない淳之介と一緒に暮らす偏屈なブンガク、茶川竜之介。
そして、戦争で愛する妻と子を失くした医者の宅間先生。
ケンカをしながらも、平凡に暮らす親子が幸福のありかを教えてくれる。

クライマックスでは孤独なブンガクと孤独なヒロミの心が一瞬
通い合う。見えない指輪をはめるシーンは何度見てもジーンとくる。
縁もゆかりもない他人同士が心の隙間を埋めあって、家族になる。

”私は口べらし”、親に見捨てられたと嘆いた六子は、親の愛情を
知って、生きる希望を見出す。
誰もがみんな、家族を思って生きている。


「ケンカをしながらも、平凡に暮らす親子が幸福のありかを教えてくれる」、「縁もゆかりもない他人同士が心の隙間を埋めあって、家族になる」、「親の愛情を知って、生きる希望を見出す」、「誰もがみんな、家族を思って生きている」という普通の言葉による普通の表現に、普通ではない真実が強く感じられたのだった。

「この映画は、ノスタルジー+べたべたの人情喜劇の映画だと言われる」らしいが、「ノスタルジー」と「べたべたの人情喜劇」のどこが悪いのだろうか。むしろ、それらが秘めた人間の真実に触れているからこそ、多くの人がこの映画を観て感動するのではないか。人間の真実、それは、この上なく具体的な希望なんだと感じた。だから、それを観た私も泣いた。それは、古き良き時代が描かれているからではなく、現代に対する診断と処方箋を示しているからだ。

もっと前に観ていれば、今日の「言語哲学入門」で、「猥雑な幸福観」を考えるためのヒントとして、この映画を取り上げたのに、と思った。「生きる希望」、「幸福」のありかを見据えた映画だと思った。それは誰しもかかえる「家族」という足元に隠れている。必ずしもそれは血のつながりを意味しない。「縁もゆかりもない他人同士」の間にも成り立ちうる「家族」という関係。心の隙間を埋める知恵。「いつかどこか」に希望は宿りはしない。「いまここ」を大切に抱きしめるように生きることの内にしか。ノスタルジーという過去への眼差しが帯びる「夕日」の色は、下手な夢、愚かな夢を見ないと決意した真っ当な心が流す血のようにも思えた。「三丁目の夕日」は「ALWAYSいつでも」日本中の夕日に違いない。