今朝の散歩では、雨の中、シャーベット状になった雪、数多ある水たまりの中を濡れながら、いつもとは反対周りのやや短いコースを辿った。藻岩山は靄(もや)に包まれかかっていたが、なかなか魅力的だった。眼は電線を蜘蛛の巣を払いのけるように藻岩山を見ようとしていた。
いつも以上に電柱と電線がクロースアップされる。以前、mmpoloさんがコメントしてくださったことを思い出す。何を美しいと感じるか。
靄、霧、霞の使い分け方にいつも戸惑う。靄(もや)は霧よりは見通しがよい状態をいい、霞(かすみ)との違いは、季節の違いらしい。霧も靄も秋のもので、霞は春、と使い分けるらしい。他方、霧が上位の分類、カテゴリーであるらしい。冬はどうなんだろう。科学的には要するに大気中の水蒸気が凝結して無数の微小な水滴となって浮遊している状態である。また、「霧」は元来「霧る(キ・ル)」という動詞の名詞形であるらしいが、万葉以来の感受性豊かな人たちは霧がたつ「動き」、プロセスに鋭敏だったようだ。「霞」も「霞む(カス・ム)」という変化への眼差しが元来なのだろう。「靄」も「靄る(モヤ・ル)」が元来のようだ。「萌え」はもちろん「萌える」「萌ゆ」だ。世界は変化のただなかになり、その変化のプロセスに感応することが最初にあり、命名後の知的プロセスにおいて、いわば動詞的把握が名詞的把握のへと省略する、縮んでしまうような気がする。