キャンパスの雪夕景。菩提樹並木がきれいに雪化粧していた。湿り気を帯びてちょっと重たい雪が15センチくらい積もっていた。日中降り続いていたことに全く気づかなかった。気温は1℃くらい。寒くはない。
帰宅途中、蝋燭の火が灯った姿を見るのを楽しみにしていたアイスキャンドルのほんとんどは暗く冷たく雪に埋もれかけていた。そんななかで奇跡的に火が灯っていたアイスキャンドルがあった。停車して窓越しに撮影した。
帰宅後2時間あまりの間に、気づいたら雪はさらに10センチくらい積もっていた。部屋の窓越しに外を撮った。隣家の白樺は「白雪樺」になっていた。
夕方には小さな雪片だった濡れ雪が、大きな雪片になり、微かに揺らめきながら落ちてくる。牡丹雪(ぼたんゆき)。英語ではlarge flakes of snowと味気ない記述のようだ。peony snowとは言わない。日本語の「牡丹雪が降っている」は英語では、"Snow is coming down in large flakes"。"snow"と名指された対象の形状と運動の方向が「分析的」に記述されるかのようだ。だから「牡丹雪が降っている」を英訳するには、「雪が牡丹の花のような形になって落ちて来る」→…→「雪がフレーク状に落ちて来る」と頭の中で数段階の変換=言い替えをしなければならない。
雪世界という小世界に限っては、次のように言えるだろうか。英語は一個の名辞=対象で世界の存在面を押さえ、世界の生成や状態の変化の面は対象の性質や運動や関係で捉えるのに対して、日本語は世界の全体を出来るかぎり多くの名辞=対象でとらえようとする。すなわち、英語には"snow"しか存在しないが、日本語には、「牡丹雪」をはじめとして色んな雪が存在する。もちろん、他の小世界では逆のことが言えることもあるだろう。
つまり、異なる言語間に共通の「存在論」を想定することはできない。言語ごとに異なる存在論を抱えた小世界からなる全体としての世界は目眩がするほどに複雑に異なる。したがって、翻訳とは「存在論」の複雑な変換作業になる。
そんなこと言ったって、所詮「同じ」人間じゃないか、「同じ」生命じゃないか、という声もどこかから聞こえる。聞こえるどころか、実際にそう書いた記憶もある。でも、「人間」とか「生命」の捉え方が言語によって「違う」としたら、事はそう簡単じゃない。