The Happy Birthday to Death / Gregory Corso :365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、3月、85日目。


Day 85: Jonas Mekas
Monday March. 26th, 2007
4 min. 40 sec.

Happy Birthday,
Gregory Corso!
(Taped on Sept.22,
2000. With Sherry,
Gregory's daughter.)

誕生日おめでとう、
グレゴリー・コルソ*1
(2000年9月22日撮影。
グレゴリーの娘、
シェリーも一緒。)

重い病の床につくグレゴリー・コルソを誕生日に見舞うメカス。それから四ヶ月後の2001年1月17日にコルソは逝く。前立腺癌だった。ベッドに深く沈むように横たわるコルソは自著を手にとり、編集者らしき男とイラストや装幀について軽い会話を交わしている。会話といっても、声はよく聴き取れないほど力ない。一枚のコピーが大写しになる。彼の詩、"DAYDREAM"と読める。

別室でグレゴリーの娘シェリーと初対面の挨拶を交わすメカス。シェリーは職業が看護婦で、最期までグレゴリーの献身的な看護をしたと伝えられる。

グレゴリーの枕元に戻ったメカスは昔話を始める。チェルシー・ホテルで、あれはたぶん1970年だった。ある日、真夜中に眠れなくて、よしタイムズ・スクウェアーに行くぞと思ったんだ。そして扉に近付いて開けようとしたら、傍の本棚から本が飛び出した。何だろうと思って手に取ってみたら、"The Happy Birthday to Death"*2だった。それで、これは何かのお告げだと思って、タイムズ・スクウェアには行くなというお告げだと思って、行くのを止めたんだ。グレゴリーの「行くな」というか細い声の相づちと微かな笑い声が聞こえる。

イタリア系のグレゴリー・コルソ(Gregory Corso, 1930-2001)は、ケルアック(Jack Kerouac, 1922-69)、ギンズバーグ(Allen Ginsberg, 1926-97)、バロウズ(William S. Burroughs, 1914-97)に続くビート世代の第四のメンバーと言われる。家庭には恵まれなかった。母親は16歳で彼を生んだが、一年後には家族を捨ててイタリアに帰った。グレゴリーは子ども時代の大半を孤児院や里親の家で過ごしたという。父親とのそりもあわなかったようで、一緒に暮らすも、家出を繰返し、青春時代はトラブル続きで、十七歳の時には窃盗で逮捕され三年間の刑務所暮らしを経験している。しかし刑務所の図書館で文学に目覚め、詩を書き始めた。そして1950年に刑期を終えて刑務所を出て、ニューヨークに戻ったとき、グリニッチ・ヴィレッジのバーでギンズバーグと運命的な出会いをする。そこからビートニク詩人としてのグレゴリー・コルソの人生が始まった。

70歳の誕生日に、妻らしき人の姿はない。娘のシェリーの存在感が大きい。死後、故人の遺志通り、遺骨はローマのプロテスタント墓地の敬愛した英国の夭折詩人シェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792-1822)の墓の隣に葬られた。自作の墓碑銘はこうである。

Spirit
is Life
It flows thru
the death of me
endlessly
like a river
unafraid
of becoming
the sea

死を、河から海に流れ込む水のように終りなく循環するスピリットとしての生の一環とみなす一種の超越的なヴィジョンの中でグレゴリー・コルソはおだやかに亡くなったのだろうか。

今日のフィルムを見て、昨日少しだけ触れたル・クレジオの『歌の祭り』の中でに出てくる癌で死にかけたまだ若い、三十歳くらいの女の逸話を思い出した。パナマの市民病院では医者に見放され、森の中の自宅に帰った彼女は部族の呪術師の家で最期の時を迎えようとしている。彼女には数週間ずうっと呪術師メニオが付き添っている。

彼女のために、メニオは毎晩歌った。彼女の夫と両親が、ベカ(歌の祭り)のための費用を払った。家は祭りのために飾られ、棕櫚のアーチが作られ、花束が置かれ、木像が準備された。家の中心、木の葉のベッドの上には、アトーレ(トウモロコシの重湯)とチチャをみたしたお椀。けれどもメニオが歌っているのは、もはや治癒をめざしてのことではなかった。この若い女性が死んでゆくことを彼は知っていたし、彼はただ死に向かう彼女に付き添ってやるだけなのだ。

ぼくはそれ以前にそんなことを見たことがなく、将来もけっして忘れることができないだろう。若い女は、家の床に横たえられていた。胸は苦しそうに持ち上げられ、もう手足を動かす力は残っていなかった。それなのに、彼女の顔は輝いているのだ。絶食のせいで大きく見える彼女の両目は、見たこともない光を放っていた。ここは彼女の故郷だ。病院での、恐ろしい、手荒な、検査や穿刺の日々と分かれて。いま彼女は死につつあるが、きわめておだやかに、アイバナ(呪術師)の声にのって、凧のように軽やかに漂っている。彼女は二日後の夜明け、メニオの歌の終わりとともに、亡くなった。

ぼくは歌の祭りについて語りたかった。なぜならこの儀礼に参加したことはぼくを完全に変え、宗教や医学について、または芸術と呼ばれる時間と現実の別の概念について、ぼくが抱きうるすべての考えを変えてしまったのだから。これらの祭りのおかげで、ある普遍的な真実についての、これ以上に完全で意味深い表現、単に治療としての存在理由をもつだけではなく失われた均衡の探究でもあるような表現は、ありえないということが、ぼくにとっては明らかになったのだ。歌の祭りによって、アメリカ先住民の人々は、これ以上のものは今後もけっして見出せないであろう形式の完全さ、表現の力強さを、見せてくれたのだった。
(015頁-016頁)


ちなみに、ウェブ上にグレゴリー・コルソ(グレゴリー・コーソ)に関する日本語情報は私が調べた限りでは、翻訳作品の情報*3とミュージシャン佐野元春さんが1986年に泥酔しているコルソにインタビューした記事の抜粋*4の他は、まとまったものは存在しない。

*1:カタカナ表記に関して、Googleのウェブ検索では「グレゴリー・コーソ」が約246件、「グレゴリー・コルソ」が約217件である。邦訳書の著者名としては「グレゴリー・コーソ」が使われてきた。ここでは、イタリア系であることを尊重して「グレゴリー・コルソ」で通す。

*2:正しくは"The Happy Birthday of Death" (1960)。

*3:『人間賛歌』(彼方社、ビート詩叢書 2,グレゴリー・コーソ詩集、1996)、『土まみれの手 』(彼方社、ビート詩叢書 1,グレゴリー・コーソ詩集、1994)など。

*4:「Person - with friends」参照。